ヴィクトリア朝イギリス(1837~1901)は物語の舞台としてたいそう魅力的であるらしい。
イギリス帝国絶頂期、裕福になった中流階級は上流の生活を真似て家事使用人を雇い入れ始めた。メイドや執事などの使用人数は急増し、『エマ』『黒執事』といった使用人マンガの源泉となった。ゴシック趣味や怪奇、犯罪に目を向けると、フランス革命を生きのびたマリー・タッソーがベーカー街に蝋人形館を創立したのは1835年、それから半世紀ほど過ぎた1881年には、フィクション内の設定ではあるが同じベーカー街でシャーロック・ホームズとワトソンが共同生活を始めている。その数年後、1888年には切り裂きジャックが霧のロンドンを恐怖に陥れていた。
創作の種が転がっているという言い方は不謹慎かもしれないが、クリエイターからすればこれほど魅力的な時代もそうそうない。メイドや探偵といった素材のひとつひとつにフィクションの柱となるだけの魅力があるし、当時の空気そのものが異国情緒をかもしている。
今回取り上げる『レディ・ヴィクトリア』はどちらかといえば後者──ヴィクトリア朝末期のイギリスを、まるで見て来たかのように描き出した作品だ。二輪馬車や四輪馬車が小路を行き交い、秘密結社ヘルファイア・クラブの存在がささやかれ、お嬢様方は親の目を盗み「下品な」探偵小説を読み耽る時代。
1885年、「ロンドン南西区、チェルシー、アンカー・ウォーク。それは、テムズ川の北岸に沿って続くチェルシー河岸を北に入る通りから、さらに西へと折れた小路」(1巻、p.80)──事務弁護士や公立学校の教師の家が並ぶ通りに、天真爛漫なレディ、ヴィクトリア・アメリ・シーモアが住んでいる。十代の少女のような小柄な未亡人は、その数奇な生き様からして社交界の噂の的であったが、一部のご婦人方にはもうひとつの顔をもって知られていた。彼女は来客に適切な助言を与え、スコットランド・ヤードも手を焼く難事件を解決に導いていく、いわゆる探偵なのである。
第一章、第二章の語り手である侍女パメラ・ロバーツは、自らの仕える奥様レディ・アルヴァストンの命を受けアンカー・ウォークのお屋敷を訪れる。アルヴァストン伯爵家で開かれた晩餐会、そこで発生したダイヤモンドの耳飾り盗難事件を解決するために。第三章、第四章ではフランスから来た新進詩人がとあるお屋敷で見つけた謎の女性について相談するため、仲間たちから紹介を受けレディ・シーモアを訪れる。
しかし表題に「アンカー・ウォークの魔女たち」とある通り、探偵役となるのはレディ・シーモアだけではない。確かに彼女は全てを見通したような雰囲気を纏っているが、必ずしも正解にたどり着くわけではなく、レディズメイドのシレーヌにより鋭い推理を示されることもある。言ってしまえばレディ・シーモアは全能の存在ではない。彼女は神秘のヴェールではなくリアリティの衣をまとい、『レディ・ヴィクトリア』の世界観に溶け込んでいる。
その世界観とは何か。著者が徹底的に調査したであろうヴィクトリア朝の文化であり、様々な語り手の文体がかもし出す空気だ。たとえば第一章の語り手であるパメラはさる人物の身体的特徴について「頭の輝かしいふくよかなお方」という婉曲表現を使い、地の文にも雇い主に対する敬語が混ざる。登場人物は貴族社会の人間関係を熟知している前提で語りが進むため、誰が誰のことを話しているのかきちんと把握しながら読まなければならない。
しかし、もったいぶった言い回しや婉曲表現、そして複雑な人間関係はこの作品の持ち味でもある。リーダビリティを多少犠牲にしてでも時代の空気を表現しようとしたのなら、その意を汲むのもまた一興。本書を読むという行為は絡まる糸を丁寧にほぐしていくようなもので、まるでパズルを解くような楽しみとともにある。休日に紅茶でも飲みながら、馬車の行き交う19世紀のイギリスを脳内に構築していこう。
レビュアー
ミステリーとライトノベルを嗜むフリーライター。かつては「このライトノベルがすごい!」や「ミステリマガジン」にてライトノベル評を書いていたが、不幸にも腱鞘炎にかかってしまい、治療のため何年も断筆する羽目に。今年からはまた面白い作品を発掘・紹介していこうと執筆を開始した。