何気なく立ち寄った浜辺で、とても美しい「たからもの」を拾った。
もし『クラゲの食堂』との出会いを語るなら、こんな言い回しがよいだろうか。行きつけの書店でなんとなく気になる単行本を発見し、表紙の美しさやあらすじに惹かれてレジへ直行。読み始めるとこれが予想以上に面白くて……というのは読書家あるあるだと思うが、筆者もこのようにして本書と巡り合ったわけだ。
このエピソードに関しては、帰宅後に「第19回BOX-AiR新人賞受賞作」であることに気付き、各社新人賞タイトルをチェックしていたはずの自分の記憶力に疑問を抱く、という締りのないおまけもついているのだけど、まあ恥ずかしい話はさておくとしよう。もっと大事な話がある。
本書はアニメ化を果たした。
来たる2016年3月9日にOVAが発売されるとのことだ。映像化の例としては珍しい部類ではないだろうか。本書は何万、何十万と売り上げた大ヒット作品というわけではないし、界隈で極めて高い評価を得ているという話も聞かない。だが、むべなるかな、と言わせるだけの魅力が『クラゲの食堂』には備わっている。知名度や実売部数を抜きにしても、映像化してみたいと強く思わせるような力が。
ただ同時に、読み終わるまではなかなかご納得いただけないだろうな、とも感じている。なにしろ本書はけっして自己主張の強い作品ではない。アクの強いキャラクターやトリッキーな展開を前面に押し出してはいないし、帯や宣伝の言葉選びからも、万人の目を引くよりは届くべき人に届けたいという意志を感じる。ストーリーだってささやかなものだ。傷心の少年が見知らぬ海辺に辿り着き、食堂を経営する年上の青年とひと夏を過ごす。ただそれだけ。もし本書から聞こえてくる音があるとしたら、静かな浜辺に打ち寄せる波の音と、口数の少ない住人たちの囁きくらいのものだろう。
だから、もし本書を手に取られたら、まずは耳を澄ませていただきたいのである。それから、浜辺で拾った貝殻に耳を当て、ゆっくりと目を閉じて、かすかな音を注意深く拾い集めるように、一文一文を丁寧に読み込んでほしい。そうすればやがて本書のよさが――行間にたゆたう喪失感が、柔らかな気遣いや痛みが、じんわりと胸の内に染み込んでくるだろうから。
語り手である三崎葉太郎は、双子の弟を失っている。理由は不明、自殺であった。同じ顔をした弟の死は耐え難く、悲しみに暮れる母の漏らした一言にとうとう堰が切れてしまった。葉太郎はふらりと家を出た。行き先はどこでもよかった。電車を乗り継ぎ、見知らぬ町の浜辺までやって来て、そこでふっと意識を失った。
葉太郎を救ってくれたのは地元で食堂を経営する青年だった。彼より少し年上で、嵐という名前で、口数は少なく、どうやら兄を失っているらしい。葉太郎は己を記憶喪失と偽り、自分を拾ってくれた嵐と一緒に海辺の食堂で共同生活を送る。クラゲの水槽が置かれたそこは、傷心の葉太郎にとってはひどく居心地のよい場所だったから。
“ここは、切ないもの、淋しいことで心を痛めて、その痛みと長い時間ともに過ごした人たちが作ってきた場所なのだ。異物である俺を受け入れるおおらかさがある。夜の波音のように穏やかに、生き物を毛布に包んで健やかな眠りを与えてくれる。そうしてやわらかな痛みを今でもずっと抱えて生きている。(p34)”
田舎の町では時間はゆっくりと流れる。両親に無事である旨を書いた手紙を出しても、すぐには返事が来ない。葉太郎は嵐を手伝い、よくしてくれる住人たちと関わりながら、静かに、淡々と、心の傷にかさぶたを重ねていく。『クラゲの食堂』はそのような話だ。
ただし、それ「だけ」の話ではない。第一話のラストでは、嵐と彼の兄の身体に関する重大な秘密が明らかになるのだが、これが見事な奇想なのだ。突飛でありながら雰囲気を壊さず、おぼろげな星明りのように作品の輪郭を浮かび上がらせている。そのシーンはどう考えても非現実的で、冷静に考えればちょっとグロテスクかもしれず、けれど神秘的な美しさをたたえているに違いないと確信させるに足るものだ。
そのアイデアは第一話のラストを衝撃的に彩り、物語を牽引していく鍵としても機能する。奇想と物語が有機的に結合しているのだ。もしあなたがマンガ読みであれば、市川春子作品などを想像してみるとよいかもしれない。紙面の静けさと少し不思議な発想。本書にもそういうものが満ちている。
ところで、「自分と同じ顔をした弟の死」「浜辺への漂着」「記憶喪失」といったキーワードからは、どうしても「臨死体験」を連想してしまう。「クラゲの食堂」に医療器具はないが、作中で果たす役割はサナトリウムとよく似ている。だから筆者は最初、この話を治癒の物語として読んでいた。語り手である葉太郎の再生、あるいはセラピーの物語。
町の住民との交流は葉太郎に有益な示唆を与えただろう。クラゲの食堂に居着いた少年は、嵐に関わる人々の口から、必然的に彼ら/彼女らの人生から生まれた金言を拝聴することになる。彼らの嵐に対する態度は葉太郎の身の振り方に影響を与えずにはいられない。最終的に葉太郎が取った行動を見れば、突発的な家出と食堂での生活を経て「成長」したらしき跡も見られる。
しかしその描かれ方はけっして劇的ではない。弟の死という心の傷はそうやすやすと治療出来るものではないし、サナトリウムを垣間見たからといって見学者の傷が完治するわけではない。運命は最初から定まっている。嵐は抗うこともなく、逃げることもなく、あるがままの現実をただあるがままに受け入れる。それを見た葉太郎も、けっして大声で泣き叫んだりはしない。『クラゲの食堂』の筆致は最初から最後まで抑制的だ。奇妙なアイデアによって牽引される物語が最終的にたどり着くのは、奇跡的な結末でも涙の押しつけでもない。そのような意味では、優れているとは言えても、分かりやすい物語だとは言えまい。
だからこそ、耳を傾けなければならない。行間から漂う静かな声を聞き逃さないために。もちろん本の読み方は人それぞれで、別に強制するようなものでもないのだが、もし筆者が再読する場所を選ぶなら、深夜の自室のベッドの上か雨の日の喫茶店で、携帯の電源はOFFにして没入出来る態勢を整えるだろう。『クラゲの食堂』は、そのような向き合い方をしたいと強く思わせてくれる作品だ。
レビュアー
ミステリーとライトノベルを嗜むフリーライター。かつては「このライトノベルがすごい!」や「ミステリマガジン」にてライトノベル評を書いていたが、不幸にも腱鞘炎にかかってしまい、治療のため何年も断筆する羽目に。今年からはまた面白い作品を発掘・紹介していこうと執筆を開始した。