古代中国から三国志の時代を経て最後の皇帝を奉じた清の時代まで、中国の王朝をめぐる歴史の雄大な流れには、私たちの心を掴んで放さない魅惑的な物語が詰まっています。人情にあふれ高潔な武人たちや、戦を経て次々と代替わりしていく支配者、それに伴って移り変わる文化が織りなすその世界観の、なんと華やかで鮮やかなことか。
ところで、その中国の長い歴史の中で「三大悪女」とされる女性がいることをご存じの方も多いでしょう。ひとりは、高祖劉邦の妻・呂后(りょこう。呂雉〈りょち〉)、もうひとりは清王朝末期に実権を握っていた西太后(せいたいこう、せいたいごう)、最後のひとりは、今回紹介する本のタイトルにもなった則天武后(そくてんぶこう)です。彼女はどのような人生を歩み、当時の王朝で何を成し遂げた人物だったのでしょうか。
悪女のゆえん──政敵を蹴落とすための血なまぐさい所行
1984年に公開された中国と香港の合作映画「西太后」のなかで、実権を握るようになったあと、両手両足を切断して甕の中で飼い殺しにしている恋敵を、主人公である西太后が満足そうに眺める衝撃的なシーンがあります。
西太后も悪女として名高いのですが、このエピソードは事実ではありません。同じく悪女として名を連ねる呂后や則天武后の逸話を借りて、西太后が権力にたどり着くまでの残虐性を前面に押し出そうという映画的演出でした。
残虐性の演出として引き合いに出される則天武后は、実際にどんな悪行を行ったのでしょうか。
ライバルを蹴落とすための、壮絶なエピソードをいくつか紹介しましょう。武とは則天武后の姓で、照とは名、また、昭儀とは後宮での地位を表し、正二品で、当時の武照をいいます。
──ある日のことであった。王皇后が武昭儀の部屋を訪れた。奥向きをおさめる立場の者として、後宮の女官の出産を祝うためにきたのであるが、たまたま武照は不在であった。否、「皇后陛下のお成り」との先ぶれを聞いて、こっそり隣室に身を隠したのが真実であろう。王氏は部屋に入ったが、だれもおらず、赤ん坊だけがベッドに寝かされていた。王氏はその無邪気でかわいらしい顔をみて、思わず抱きあげ、頬ずりをした。しばらくあやしたあと、武照がもどらないため部屋をあとにしたのであった。
それよりややたって、武昭儀の部屋からにわかに悲鳴があがった。皇帝がやってきたため、赤ん坊をみせようと着ているものをとったところ、その子が冷たくなっていたのである。武照は驚き、左右の侍女に問いつめると、
「ついいましがた、皇后様がいらっしゃいました」
との答え。それを聞いた皇帝は、怒りで身をふるわせた。
「皇后のやつめが、朕の娘を殺したのだ」
じつはこれは、武照が十分計算してしくんだ罠であった。武照は皇后が部屋を出ていくと、隣室からそっともどり、自分の娘を絞め殺した。そのあと布団を上にかけ、だれにも気づかれないように外に出た。そして、あたかも王氏が、皇帝と武照の関係を憎むあまり、その子に手をだした、と解釈されるように仕向けた。──
(講談社学術文庫『則天武后』P.120より)
これを機に、王皇后は皇后の座から追い落とされることとなりました。自分が皇后になるためにお腹を痛めて産んだ我が子ですら手に掛ける、武后の成り上がることへのすさまじい執念を感じます。
王皇后と火花を散らしていた蕭(しょう)という淑妃(しゅくひ=後宮の最高位の女官)がいましたが、彼女も同じように力を失い、王皇后ともども廃位されました。しかも、王氏と蕭氏は廃位の1年以上前から暗い奥の部屋に幽閉されていたのです。高貴な彼女たちを徹底的に貶めて、狂い死にさせようと考えた武后によるものでした。
彼女らの身を案じた皇帝が幽閉場所まで出向いていったことに腹を立てた武后は、とうとう彼女らを処刑することにします。王氏と蕭氏を鞭打ちの刑に処したあと、その腕と足を切断させ、酒の甕のなかに首だけ出したまま放り込んだのです。
これが、映画「西太后」で使われたエピソードの元になるわけですが、武后のこの所行は、同じく悪女と名高い漢の呂后が、夫・高祖の愛妾・戚(せき)夫人の手足を切断し、厠に投げ入れて辱めたエピソードを意識していたのでしょう。
武照の上昇志向はどこから来たのか
武照が宮中にあがったのは、彼女が14歳のときでした。
武照は亡くなった父の後妻の娘でした。父の先妻には2人の息子がおり、勝ち気で明るく、どんなことにもめげない武照は、2人の兄に反発していじめられ、つらくあたられたそうです。そうしたなかで彼女は、いつかきっと仕返しをしてやると思ったことでしょう。逆転した立場から、彼らを見返してやれるかもしれないとも。
後宮にあがって与えられたのは才人(さいじん)という地位で、けっして高い地位ではありませんでした。加えて、当時の太宗皇帝は39歳、精力さかんな時期ではあり、また武照も見目麗しいことで宮中に迎えられましたが、太宗はあまり武照を近づけることはなかったようです。
しかし、あるとき彼女に運気が巡ってきます。太宗は52歳になったころから体調をくずしはじめ、床に伏せることが多くなってきました。宮中生活13年を迎えた武照はまだ20代、宮中で宦官以外に男は太宗しかいないなかで、父太宗の看病のために詰めている皇太子の李治の心を射止めることに成功したのです。
次期皇帝である高宗李治の寵愛を受けるようになった武照は、才人から昭儀、そして皇后となり、短期間の皇太后を経て自らが皇帝の地位につくことになります。2000年以上にわたる中華帝国のなかで唯一の女帝(武則天)です。
皇后に至るまでの間に、前述のように王皇后と蕭淑妃を追い落とし、皇后となったあとも体の弱い高宗に代わって政治を執るまでに至るわけですが、どんなチャンスも見逃さず、自分の地位向上のためにはどんな手も使う、そうした執念と機微、総合的なバイタリティはどこから来たのでしょうか。
ものの本や映画、ドラマなどで知られるように、中国王朝の宮中は女同士のすさまじい戦いが繰り広げられています。まだ14歳だった彼女がつらい家庭環境にあって「見返してやりたい」と思ったのが原点かもしれませんし、やらなければやられる女の戦場にあって、美しく、もともと長けていた政治的才能が花開き、より先鋭化していったのかもしれません。
則天武后の活躍した唐の時代は、女性が比較的自由に表舞台に出てきた時代でもあるのだそうです。唐の時代が終わったあとには、女性の足の成長を止める纏足(てんそく)というグロテスクな習俗が始まり、長く続きます。彼女の持っていた才能と時代、置かれた状況が、絶妙に影響し合って「則天武后」という人間の生き様を後押ししたのではないでしょうか。
近年になって評価され始めた則天武后の政治力
血なまぐさい逸話ばかりで語られることの多い則天武后ですが、近年、彼女の実績を積極的に評価する動きが出ているようです。
彼女が政治に関わるようになってから、さまざまな制度改革があったようです。そのうちのひとつのエピソードが、こちらの記事『「日本」はいつ生まれたのか? 古事記にないのはなぜか? 国号の謎を追う』で紹介している『「日本」 国号の由来と歴史』にありました。それまでの日本は、中国から「倭」と呼ばれていたのを、則天武后が「日本」と改めたと書かれているのです。
本書『則天武后』には、まだ年若い則天武后が宮中に入るころの時代背景から、彼女が皇后に成り上がり、病弱な皇帝に代わって、あるいは、後に自分が皇帝となって行うさまが、情感たっぷりに描かれています。
臨場感あふれる激動の時代、唯一の女性皇帝であった則天武后が行ったさまざまな知略、国外国内政治とともにあった彼女の生涯を、ぜひ堪能してみてください。