1992年、福岡県飯塚市で二人の小学生女児の遺体が発見される。DNA型鑑定などで犯人とされた久間三千年は、逮捕から一貫して無罪を訴えたが2006年に最高裁で死刑が確定。2008年、判決から刑の執行まで2年という異例の早さで福岡拘置所で久間三千年は刑死。翌年には冤罪を訴える再審請求が提起され、一般に「飯塚事件」と呼ばれるこの事件の余波は今も続いている。
本書は、この飯塚事件に関わった福岡県警、久間三千年の無実を信じた弁護団、それを報道した西日本新聞社のジャーナリストを追った同名のドキュメンタリー映画および、NHK BSスペシャルとして放送された番組の書籍化である。著者は元NHKのディレクターで、先の映画の監督でもある。
「久間三千年という人物が冤罪により命を奪われた」
「いや、久間三千年が犯人だった」
そういう白か黒かという視点で本書は書かれていないし(多分、映像もまたそうなのだと思う)、
「判断は読者に委ねる」
みたいな濁した書き方もしない。が、それは読者に付きまとう。
かつて、映画監督の大島渚は「カメラは決して中立性などは持ちえず、常に加害者なのです」と、“カメラで撮影すること”の暴力性を指摘した。ときに「ドキュメンタリーは中立で真実を描く」と誤解される場合がある。でも、そんなことあるわけがない。アングル、照明、そして編集によって、カメラを持つ側は、いかようにも「これが事実だ!」と主張できる(真実はさておき)。不都合なものは最初から素材として使わなければいい。映像は嘘をつき、ドキュメンタリーは常に視点によって支配されているものだ。
しかし本書は、冤罪か否か、意見がぶつかる「警察」「報道」「弁護士」のすべての声が、都合良きところも、都合悪きところもバランスよく(ほぼ)出揃っている。つまり、中立性を持っているように見えるのだ。これは稀有なことだ。それが可能だったのは、すでに判決が下され、刑が執行された事件であること。当時の当事者(特に警察関係者)の多くがすでに引退し、組織に縛られず自由に発言できた外的な要因があると思う。そして本書が(誤解を恐れずに言えば)面白いのは、この「飯塚事件」からの20年という時間が、歴史として捉えるには生々しく、現在進行形で考えるには時間が経ち過ぎている点にある。どっちつかずのスリリングさと、死者のことを考えると「面白い」とは言えない後ろめたさ。
ノンフィクションとドキュメンタリー
久間三千年は、四つの証拠をもって殺人犯だとされた。死体遺棄現場近くでの目撃証言、DNA型鑑定、車に残っていた血痕、繊維鑑定。そのどれもが直接的に久間三千年の犯行であることを指し示すものではない。しかし全部ひっくるめると久間三千年が犯人だと断定できる。それが裁判官の判断だった。しかし、当時のDNA鑑定の精度は低く、死刑執行後の再審請求時にはDNA鑑定で改竄、捏造の疑いが浮上する。さらには警察のDNA鑑定とは逆の鑑定結果を出した大学教授に、警察庁の幹部が圧力をかけた疑惑もある(その幹部とは、警察庁長官銃撃事件で撃たれた國松孝次である)。
ここまで来れば「冤罪確定ではないか」と思う。「疑わしきは被告人の利益なり」という推定無罪が正しいのではないか? 警察も裁判所もおかしいではないか。スクープを取るために先走った報道を行った西日本新聞も同罪だ。のちに西日本新聞は、真摯にその姿勢を問い直す調査報道を行うが、そうだったとしても死刑が執行された後に行っても意味がないじゃないか……。
そう思ったところで、はたと自分に問う。
それが私の正義か? と。
久間三千年の妻
私も警察のなかにまだ正義はあると思っているのでね、心の隅には、警察のなかにはまだ正義があると思っているので、それが私たちをいつか助けてくれると思っています。
──信じたいという部分がある?
警察に対して? それはありますよね。やっぱり生まれてからずっと大きくなるまで警察を信じてきましたもんね。警察は私たちの味方だと思っているから。信じてきたのでね。
個人的にはね、ウチに来られた刑事さんたちもすごく話していていい方なんですよね。警察の本当の正義の声がほしいです。私たちが警察を頼らなくてね、誰に頼ったらいいのか分からないじゃないですか。
警察はいつも弱いものの味方をしてくれてたんだから。
NHKでスペシャル番組が放送されたのち、事件を担当した元福岡県警捜査一課長は、番組を観たという知人から「あんたは無実の人を捕まえたとか?」と訊かれたという。そのとき、彼はこう答えたという。
「あの番組はどちらの側にも立っとらんと私は思うとる。やけん、知り合いにも、あんたが裁判員のつもりで番組を観て久間が無罪と思ったら、それはそれで良いんやないねと言うてやったよ」
「あの番組はどちらの側にも立っとらん」
その言葉は、実は、私が最初に感じたことそのものだ。そもそも「真実」は捜査、報道、裁判の過程でどんどん削ぎ落とされて失われてしまった。カメラが記録として残せたのは、それぞれの立場の「正義」ゆえの行動と判断だけだった。本書は(そして多分、映画も)それぞれの「正義」がどんなものだったのかを、ゆで卵から黄身だけを取り出すように差し出している。著者の視点、目的はそこにあったのだ。
その黄身だけを食べて、私たちが正義を叫ぼうものなら、私たちもその「正義」が何に拠って立つのか問われる。それでもあなたは、「正義」の危うさを重々承知の上で、「正義」を口にできるだろうか? それを突きつけてくる、恐ろしい本だ。
レビュアー
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。