特捜検察と聞くと「正義の執行者」のような勇ましいイメージが思い浮かぶ……そういう人は少なくないだろう。だが、その組織が抱える多くの問題点を、彼らと火花を散らしてきた敏腕弁護士が容赦なくさらけ出す。それが本書である。
まず特捜検察とは何かというと、東京地検・大阪地検・名古屋地検の三つにだけ置かれた部署で、エリート揃いの少数精鋭チームである。通常の刑事事件と異なり、彼らは自ら事件を見つけ出し、独自に捜査を行い、立件して裁判に持ち込むことができる。かつてはロッキード事件、リクルート事件、東京佐川急便事件といった巨大な事件捜査で勇名を馳せ、国家権力や大資本にも怯(ひる)まない気骨ある組織というイメージを誇った時期もあった。しかし、その内情は清廉潔白とは程遠いことを、本書は数多くの実例を挙げて喝破する。
著者が弁護を担当した実際の事件……「村木厚子事件」「カルロス・ゴーン事件」「小沢一郎事件」「堀江貴文事件」「鈴木宗男事件」などを例に、特捜検察の問題行動がつまびらかにされていく。特に多くの紙数が割かれるのは、「凛の会」という団体が障害者団体向けの郵便料金割引制度を悪用して不正な利益を得た事件で、虚偽有印公文書作成・同行使の容疑で厚労省局長の村木厚子が逮捕・起訴された冤罪(えんざい)事件。このとき大阪地検特捜部は、あらかじめ用意されたストーリーに沿った強引な供述調書作成、現場検証や物的証拠といった客観的事実の無視、さらに主任検事による証拠改竄といった乱暴な手口を重ね、なんとか有罪判決を勝ち取ろうとした(現職の厚労省局長を挙げるとなれば、かなりの大ネタである)。しかし、村木氏はかたくなに無実を主張。逆に検察の非人道的な手口が次々と明るみに出たことで、裁判では無罪判決が出たうえ、検事総長と次席検事の引責辞任、検察改革の機運まで招くことになる。
村木氏とその関係者が体験した特捜の捜査方法には、思わずぞっとさせられる。その内容はまさに特捜検察の恥ずべき行状アラカルトともいうべきもので、弁護士として彼らと戦い続けてきた著者の怒りが伝わってくるような筆致もすさまじい。
以下は、誰からの指示でもなく、あくまで独断で「凛の会」のために偽の証明書を発行した上村勉氏の証言についてのくだり。彼自身が法廷での証言時に「全部でっち上げです」と断言した内容だ。
検察官が示した調書の該当部分には、
「平成16年6月上旬ころ、村木さんが、自ら、内線を使って、私に電話をかけてきました。/その電話で、村木さんは/『凛の会』のことで面倒なことをお願いしちゃって、ごめんなさいね/などと言って、優しい口調で、悩んでいた私を気遣ってくれ、さらに/5月中の日付で、証明書を作ってくれていいから/証明書ができたら、私のところに持ってきてください/などと――中略――指示してきました」
との記載がある。実際にはこのようなやりとりがいっさいなかったことが裁判で明らかになったが、およそ存在しないことでも、「優しい口調で」「悩んでいた私を気遣って」というもっともらしい言葉まで並べて、調書が作られたのである。
(中略)
事実とかけ離れたことを、このように真に迫ったセリフまで入れて調書に仕立て上げる検察官の「作文能力の高さ」には驚かされる。
「実際には存在しなかった発言を、もっともらしく供述調書に書き込む手法」は、もはや一般的なモラルや法遵守意識を持たないソシオパス的狂気すら感じる。さらに、いたずらに拘留期間を長引かせて被疑者や被告人を心身ともに参らせる「人質司法」をはじめ、人権など無視した「落とす」ためのテクニックが次々と紹介される。取調室で壮絶な罵声を浴びせかける、いくら事実を述べても検察側のストーリーに合わないことは徹底的に無視する、家族や近しい関係者を巻き込むことで揺さぶりをかける、あるいは周囲との接触や連絡経路を断って孤立させる、などなど……。結局、村木氏は164日間も身柄を拘束されたという。
冤罪事件は誰もが巻き込まれる可能性があると考えると、まったくの他人事と思ってはいられないのだろう。また「自分だったら執拗な取り調べに耐えることができるだろうか」とも考えずにいられない。これを書いているのはちょうど酷暑の真っ最中なので、「村木さんが拘留されていた大阪拘置所は、房の中にエアコンがなく、夏は蒸し風呂のような暑さだった」という記述だけでも、もう降参である。
そういう調書作成を毎日通常業務としておこなってきた人間が、たとえば天下りして一般企業向けのビジネスクラスなどを開催したらどうなるだろう? 効果抜群の交渉術とか、職場での人心掌握術とかいった名目で「よきこと」として流布されたら……という不気味な想像すらしてしまう。事実、そういう心理操作やマウントの取り方は、程度の差こそあれ、一般社会でも見かけるものでもある。日本人のメンタリティにはそういう「他人を追い込むことを是とする」面があるのかと思うと、そういう意味でもぞっとする。
世論を騒がせるほどの大きなヤマに挑み、必ず有罪に持ち込まなければ、特捜の面子が立たない……そんなプレッシャーが特捜検察の強引な捜査方法を常態化させ、さらに「勝ち目のないヤマは捨てる」傾向にも拍車をかけているのではないか、と本書は指摘する。日本の刑事事件は有罪率99.9%といわれているが、逆に有罪に持ち込めそうにない事件については不起訴に終わるケースも少なくないということだ。本書冒頭でも、東京オリンピック・パラリンピック2020の贈収賄疑惑で、なぜ森喜朗や竹田恆和といった大会組織委員会の中枢人物には捜査の手が及んでいないのか?という疑問が述べられる(ちなみに著者は同事件で、KADOKAWA元会長・角川歴彦の弁護を担当)。そういえば最近Netflixでドキュメンタリー化されたルーシー・ブラックマン事件でも、数々の犯行が事実認定された被疑者がブラックマン殺害については不起訴となった。いろいろと、疑問は尽きない。
もちろん、「真実を明らかにする」という使命感から法曹資格を取り、検察庁に入った人は、たくさんいると思う。しかし、そういう良心的な人は、組織の論理になじめず辞めていくか、抵抗して飛ばされるか、というのが世の常だ。頑張って出世しようとする人は、組織の論理に従っていくしかないのだろう。
検察官たちの人間性も間近に見てきたであろう、ベテラン弁護士である著者の言葉は重い。また、いわゆる「ヤメ検」と呼ばれる、検察を退職して弁護士に転身した同業者についても、著者は不信を隠さない。一般市民としてはつい、古巣への反発心や検察組織をよく知るアドバンテージを有したヒロイックな存在をイメージしてしまうが、むしろ現役検察との癒着・内通が心配だと看破する。
最も不安を誘うのは、検察と現政権の密接な関係だ。いま最も追うべき標的が野放しになっている感は、多くの日本国民がリアルタイムで感じているのではないだろうか。
日本の特捜検察としては、現職や元職の総理大臣を挙げるような事件だけをやって、「特捜の威力」を国民に示していければいいのだろうが、現実には、都合よくそういう大きな事件があるわけではない。そのため、総理大臣クラスに比べるとワンランクかツーランク下の政治家の事案を取り上げ、無理をしてでも事件化して「大事件」であるかのように仕立て上げるということを、一生懸命やるようになったのかもしれない。
あるいは、「巨悪」を追いたくても追えない事情があるのかもしれない。
かつて、検察と政権との関係はかなり対立的だった。ロッキード事件にしても、特捜部が自民党政権の「暗部」に切り込む形の事件であった。しかし、その後、ある記事から両者が繋がり、検察が政権の意向を忖度して動くようになったようにも思える。
もうひとつの問題は、検察とマスコミの関係である。これまで村木厚子事件を含む多くの事件で、明らかに検察内部からのリークをもとにしたと思われる報道が世間を騒がせてきたことを、本書は明らかにする。もしかしたら、我々が溜飲(りゅういん)を下げたり快哉(かいさい)を上げたりしているニュースの裏側には、何か大事なことから目を逸らそうとする別の思惑があるのかもしれない……。この本を読んだ後は、そんな思いに捉われながらニュース画面を見てしまうこと請け合いだ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。