日本のナルコスビジネスがこれまでの常識が通用しないほどの新たな局面を迎えていることについて、読者の皆さんもどうかご理解いただきたい。
ナルコ、およびナルコスとは麻薬を意味するスラング。いまや同名の人気ドラマシリーズをはじめ、様々なカルチャーシーンでも目にする機会が多くなった言葉だ。本書は、厚生省麻薬取締官事務所(通称マトリ)に40年近く勤め上げた著者が、長年の捜査活動における経験と研究をもとに、世界の麻薬ビジネス史をつまびらかにする1冊である。そこには「人類の薬物汚染を解決することはできるのか」という著者の切実な命題、ストレートな啓蒙精神が息づいている。
冒頭の引用部分は、我が国の麻薬汚染の現状について解説した章の結論である。つまり「自分には関係ないから興味ない」では済まされない段階に来ている、ということだ。
第一章では、日本において麻薬がどのように流通・浸透していったか、その歴史を紐解いていく。日本独自の興隆を遂げた覚醒剤(シャブ)の起源、ほかの違法薬物との違いもわかりやすく解説される。続く第二章では、1980年にマトリの捜査官となった著者自身の体験もまじえ、麻薬ビジネスを主導したヤクザ組織の栄枯盛衰、外国人組織の参入、IT化による混沌といった変遷が綴られていく。著者が近畿地区に配属されたころに作成したという、当時の主だった組織名+組長名リストがまるまる載っていたり、潜入捜査中に組員から「怪しい同業者」と勘違いされてボコボコにされるくだりなど、当事者にしか書けない生々しい記述の数々に息を呑む。その結末に訪れるのが「常識が通用しないほどの新たな局面」というわけだ。
ひとことで言うならば今の麻薬市場は自由化そのものと言える。2000年代からのインターネットの普及により、いつでもどこでも誰でも簡単に薬物を売り買いできる環境が生まれた。とりわけSNSは若者たちを中心にした新たな違法薬物のメインマーケットとなり、日夜、目を疑うほど大量の違法薬物の取引が行われ、世界中から日本へと送られてくる国際郵便の数は日増しに膨らむばかりである。
ここから舞台はさらに世界へと拡大していく。第三章で語られるのは、日本の覚醒剤ビジネスにおいて一翼を担った「闇の韓国・台湾ルート」。隣国との知られざるアンダーグラウンドな関係が明かされるとともに、近年は国内でも覚醒剤使用者が増えつつあるという両国の状況に、やはり他人事ではない不穏なムードを覚えずにいられない(日本からの良からぬ影響も確実にあるだろう)。
第四章の舞台は、世界最大の麻薬依存大国=アメリカを生産・流通の両面で支える、メキシコ・コロンビアなどの中南米諸国だ。本書中でも最大級のスケール感を持つ、読み応え満点のパートである。1970年代に大規模密輸ルートを開拓したコロンビア、そのポジションを継承して現在は業界トップに立つメキシコの歩んできた歴史を辿り、ビジネス確立までの流れと群雄割拠の覇権争いを俯瞰する。ドラマ『ナルコス』や『ブレイキング・バッド』、映画『ボーダーライン』や『悪の法則』など、近年のエンタテインメント業界でも頻繁に扱われている題材なだけに、映画ファンやドラマファンにとっても必読の基礎知識と言えよう(もちろん、現実の社会問題であることは前提として……)。
なかでも強烈なのが、ドラッグ・カルテルによる残虐行為の描写である。これまで多くのフィクションやドキュメンタリーでも取り上げられてきた、恐るべき現実だ。
メキシコ・カルテルは敵対する組織のメンバーを誘拐し、拷問。見せしめとして首や腕を切り落とし、ジャングルの山の中へ放置する。敵対グループの支配エリアに住む地元市民も同様の標的となる。「秘密墓地」とも呼ばれるnarcofosaには10とも20ともいわれる遺体が無造作に埋められている。
本書を読むと、それらのリミットを越えた示威活動は、「これは戦争である」という意識から来ているのではないかと思えてくる。自分自身に言い聞かせ、あるいは支配や服従を求める他者も言いくるめ、あらゆる残酷さを許容してしまう「戦争」という魔法の言葉。人間のリミッターを外す麻薬も、かつて戦争において使用され、やがて一般社会に広まっていった歴史がある。極限の「破滅の恍惚」まで行きつかないと気が済まないような抗争劇の顛末を知ると、戦争もひとつの強力な麻薬なのかもしれない……という思いに至ってしまう。
そしてもうひとつの麻薬が、言うまでもなく金儲けである。1990年代からアメリカで深刻な社会問題となっているオピオイド依存と、そこにメキシコ・カルテルがシノギの匂いを嗅ぎつけるくだりも、なかなか衝撃的だ。
本書を締めくくる第六章、真打登場とばかりに登場するのが、かのゴールデン・トライアングル。著者自身が「戦後のナルコス史を語る上で最も重要なポイントであると確信している」と語る、まさにクライマックスに相応しい舞台だ。かつて高野秀行のノンフィクション『アヘン王国潜入記』でも描かれたが、その歴史と実態はありていの想像力では追いつかない。戦争、貧困、多民族といった"麻薬ビジネス生成レシピ"ともいうべき要素が絡み合い、アジアの山奥に誕生した世界最大のケシ産地は、いまや覚醒剤の一大生産地になっているという。
国連薬物犯罪事務所の報告によれば、クーデターの起きた2021年の東南アジアの覚醒剤の押収量は172トンにものぼっている。これは過去最多の記録である。
人間の欲望はとどまるところを知らない。買うほうも、売るほうも、それぞれ違う場所を蝕みながら肥大し、人間性を失っていくのだろう。読みながら思わずペシミスティックな気分にもなるが、それを「食い止める側」の戦いも垣間見ることができるのも、本書の魅力である。たとえば、東南アジアの麻薬密造に中華系組織が関与していることを突き止める下記のくだりには、手に汗握る捜査ドラマを見るような面白さがある。
現地の捜査機関が密造所を捜索した際、繁体字、簡体字が並んだインスタントラーメンの空き箱やメモが残されていたのだ。繁体字は主に台湾、香港、マカオで、簡体字は中国本土で使われる漢字である。もちろんメモに書かれていたのは彼らが誇る覚醒剤の密造レシピだ。
あとがきでは、実在した麻薬組織のボスを描いた映画『アメリカン・ギャングスター』の一場面も引用されるが、同じ匂いが本書にもある。徒労感や空しさを何度も味わいながら、それでも持ちこたえて「倒すべきもの」と対峙し続けた男の熱意と執念が、力強い筆致に滲んでいる。文章も明解かつ巧みで(おそらく説明や説得のスキルも相当に求められ、磨かれる職場だったことは想像に難くない)、こんなに読ませる本もなかなかない。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。