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2015.11.05

レビュー

物質的な贅沢だけでなく、精神の蕩尽すらもとめた究極の贅沢の世界

キリスト教に七つの大罪というのがあります。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲なのですが、奢侈というものは入っていないようです。とはいってもこの奢侈というものには七つの大罪のすべてのものの影を落としているようにも思えます。
この本は中国古代の殷王朝(BC1700年~BC1100年)、最後の王、紂王から中国最後の王朝清の西太后まで中国の歴史に現れた贅沢三昧史です。権力の交代が表の歴史とすれば、その交代の原因ともなった奢侈を取り上げたこの本は裏面史とでもいえるものだと思います。

〝酒池肉林〟の語源ともなった紂王はどのような愚王だったのでしょうか。井波さんは「紂はけっして無能な天子ではなかった。それどころか、生まれつき聡明で弁が立ち、行政手腕も並外れていた」と記しています。けれどその優れた資質は生かされることなく美女・妲己に溺れ贅沢に溺れていったのです。
この紂王の贅沢は、「ソフィスティケイトされない、即物的なもの」であり、ひたすら価値あるものを集め「やみくもに富を蕩尽しようというのだから、これはただもう粗野というほかない」ものだったのです。といっても大陸的なスケール粗野ですからそれはおそるべきものでした。
「おそらく無上の権力というものは、それを手中にした者の神経を、おそろしい勢いで麻痺させるものなのであろう。権力が強化されればされるほど、彼らの心には逆に、いかにしても埋めることのできない真空状態が徐々に広がってゆく」。そして「絶対的な権力に不可逆的にともなうそうした暗黒の魔性のおそろしさを原型的にあらわした」のが紂王の姿だったのです。
けれど歴史は繰り返すではありませんが、紂王以後の皇帝たちもまた紂王と同じ道をたどって王朝を滅亡させていきます。秦の始皇帝は巨大な建造物や不死の願いに溺れ、隋の煬帝もまた巨大な運河を開くことに没頭し国力を疲弊し滅亡へと向かっていきました。

贅沢三昧は皇帝だけのものではありませんでした。地方の名家の流れをくむ(元は清流派と呼ばれていた)貴族たちもまた奢侈にふけるようになりました。けれど貴族の贅沢にはある特徴がみられます。それは「皇帝の贅沢にあらわれる露骨な権力誇示や(略)商人の贅沢志向に見えるギラギラした生命力やどぎつい上昇志向を忌避し、これらを野暮のきわみと冷笑するかのように、あくまで繊細にソフィストケイトされた美的世界を追求し、どこか根底的に深く病んでいること」「これこそが(略)貴族的贅沢、貴族的洗練なるものの顕著な特性にほかならない」ものでした。

物質的な贅沢は皇帝、豪商とよばれた商人たちにもその規模の違いはあるものの多く見られるものです。その総決算(!)ともいえるのが西太后でした。清の残された国力を蕩尽するかのように生きた彼女は王朝の最後に咲いた大輪ではあるものの実を結ばない花だったのかもしれません。

井波さんはこの物質的な贅沢だけではなく、もう一つの贅沢である「精神の蕩尽」にも着目します。「知識人、つまり士太夫の場合」の贅沢です。ひたすら酒と薬に溺れた彼らは何をもとめたのでしょうか。それは「政治原則がすべてに優先する現実社会とは次元を異にする世界で、自由に生きるための固有の方法を模索」していたのではないかと、井波さんは指摘しています。
そしてその苦闘の軌跡の果てに現れたのが蘇東坡と唐寅でした。「いかなる時もめげずに生活をエンジョイした蘇東坡、「市隠」として生きぬき、漂流し続けた唐寅」、この2人の生き方に、井波さんは物質的な贅沢からは得られない究極の贅沢を見ています。それは「なにものにもとられることなく、絶対自由をめざす精神の戯れに身をまかせることこそ、究極の贅沢というべきであろう」というものです。

史書だけでなく小説、説話からも広く渉猟して鳥瞰して私たちに見せてくれた中国の贅沢というものの世界、それは大陸以上に大きな何かを求めた人間たちの姿なのかもしれません。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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