この本の冒頭でも話されていますが、たかだか400年しかさかのぼれないヨーロッパ、そこで生まれ展開された概念でその6倍以上もの歴史(時間性)をもつ中国を分析するのは難しいかもしれません。“鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん”(『論語』)という言葉がありますが、あたかも、それの逆で“牛を割くに焉んぞメスを用いん“とでもいったところなのでしょうか。でしたら逆に考えてもいいかもしれません“中国とは何か”ではなく中国とは“何でないか”。
ここにはいろいろな概念がはいりそうです。国家、社会主義、民主主義……。なにかすべてのものが入れられそうです。なぜそうなってしまうのでしょうか。この本ではそれらのキーワードの有効性(非有効性)を含めて、中国自体を検討すると同時に、私たちを支えているヨーロッパ流の概念がどこまで普遍性を持っているものなのかをも検証しているのです。
3000年ともいえる中国の歴史は内戦だけではなく、異民族の侵略を含めれば激しい戦乱の歴史でした。緩やかに広がる平原は守るに難しい地形です。万里の長城もその地形に定住する民衆のため(その民衆を支配する皇帝のためですが)に作られたものでした。南船北馬という言葉が後世に生まれましたが、その北方の騎馬民族からの侵略を防ぐためのものだったのです。(最初の長城は馬が越えられない程度の大きさで作られていたそうです)その戦乱下の民衆の望みは一つ、自分たちを守ってくれる強い政権だったのです。なにより、
「政治的統一が根本で、政策オプションは選択の対象、という順番」
だったと橋爪さんが語っているとおりだったのでしょう。その強い庇護の元“鼓腹撃壌”の日々を過ごすことが民衆の望みだったのでしょう。孔子が理想とした堯の時代の姿がこれでした。もっとも現代の中国人の理想が“鼓腹撃壌”だとは思いにくいのも確かです。とりわけ大気汚染や政治家たちの利権争い、汚職、権力闘争などの実態を知るとそう感じてしまいます。もちろん広大な中国平原ですから、今でも“お上”がどうであれ余計な干渉しなければ政権担当者などは誰でもいいという地域もあるかもしれません。けれどそれも中国も罹ってる現代情報網の魔から逃れられない限り桃源郷のままではありえないでしょう。
現代中国を作った鄧小平(大澤さんによれば毛沢東に次ぐ「第二代皇帝」だそうです)にもものプラグマティックな行動原理は生きていました。_小平は“白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である”といっていましたが、はて、この“鼠”はなにを指しているのでしょうか。少し考えてみる必要があると思います。
もう一つ、この本で興味深かったのは中国における“漢字”の持つ意味・役割といったものでした。
「中国語の動詞は、活用がない。時制もない。人称も数もない。(略)中国語は漢字を順番に音読していくだけ。(略)漢字を使うようになったあとで、元の言語が漢字に合わせて変質してしまったもの」(橋爪さん)
という考えでした。本来の言語から文字という発展でなく、文字から言語が作られたというものです。そしてこの漢字こそが
「これで漢民族ができあがった。漢民族は、多くの言語集団を包摂するものとなった」(橋爪さん)
最大の武器だったのです。漢字が漢民族を作り上げていた……。
鼎談というスタイルなのでとても読みやすく、そして中国を考えるのに重要なポイントを教えてくれる一冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。