日向ひまり(ひなたひまり)さんは謎多き人妻である。
突然こんなことを言われては戸惑うかもしれないが、『晴追町には、ひまりさんがいる。』を読まれた方にはご理解いただけると思う。架空の町を舞台としたこの青春小説は、不眠症に悩む主人公・木村春近(きむらはるちか)がひまりさんと出会う場面から始まるのだが、この30ページほどの短いプロローグからして少なくとも3つの謎を含んでいる。
・ひまりさんは深夜3時にお弁当を持って犬の散歩をしている。
・彼女は飼い犬の「有海(ありうみ)さん」を「旦那さま」だと言い張る。
・自己紹介もまだのはずなのに、木村春近の名前を知っている。
ほのめかすだけほのめかして、答えも告げずにひまりさんは去っていく。出会い頭に魅力の弾丸をこう何発も撃ち込まれては、たとえ人妻・年上属性がなかろうと、この謎めいた若妻に多少は興味が湧いてくるというものだ。こうして開始早々ひまりさんに魅了された読者は、主人公の春近と同じように、ページをめくりながら彼女の後ろを追いかけることになる。
だが、春近はひまりさんのことばかり考えているわけではない。晴追町では日々様々な事件が発生し、彼の行く手を阻んでしまうのである。たとえば第一話はこんな話だ。大学2年生になった春近は新しくサークルに入ってみた。そこに所属する同学年の女の子、巴崎さんはとてもシリアスな恋愛をしていた。彼女は後追い自殺をしそうなほどに思い詰めており、春近は自分に何かできることはないかと模索する。
第2話では幼稚園に通う子供たちが奇行を始めるようになったという謎が提示される。新しい園長が赴任してからのことだそうだが、主婦たちは新園長のマフィアのような風貌が怖くてなかなか近寄れない。そこで、これを調査してほしいと春近に白羽の矢が立てられる。
いずれの謎もしょせんは他人事。無視しても咎められることはなさそうだが、春近は人が良い。不眠症をひまりさんに軽くしてもらったこともあり、誰かが悩んでいたら首を突っ込まずにはいられない。とはいえ彼はプリンと人妻が好きなだけの一般的な大学生である。できることなどそうはないわけで、最後の一押しが必要な段階になると、あと一歩がなかなか踏み出せない。
そういうとき、彼は汚れた衣類を手に、ひまりさんの勤めるクリーニング店に足を運ぶ。
「きれいになりますか?」
「やってみましょう」
すると、憑き物が落ちたように物語は解決に向けて収束する。『晴追町には、ひまりさんがいる。』は、ミステリアスな話が詰まった、けれど心温まる連作短編集なのだ。
犬についても触れておこう。
ひまりさんの飼犬は「有海さん」という名前の白いサモエド犬である。サモエドといえばロシア生まれの犬種で、ポメラニアンやスピッツに近い。「晴追町」では白い犬が「お犬さま」としてまつられており、有海さんも町中至る所で可愛がられ、親しまれている。ひまりさんについて回る有海さんは、もちろん主要キャラクターだ。
さて、白い犬が主要なキャラクターとして登場する作品といえば、たとえばライトノベルなら『キノの旅』を思い出す人もいるだろう(陸、という白犬が登場する)。筆者は『もののけ姫』のモロの君を思い出したが、調べてみたらモロは山犬(犬神)であった。山犬といえばニホンオオカミをさしていたはずだから、犬と同列に語ると「黙れ小僧!」と一喝されてしまうかもしれない。
本書のあとがきでは『めぞん一刻』について触れられている。なるほど人妻に恋する大学生といえば『めぞん一刻』だし、そういえば音無響子さんも夫と同じ名前の「惣一郎さん」という白い犬を飼っていた。あの犬が惣一郎さんの名前を受け継ぐエピソードは切ない。それを踏まえて本書を読み直すと、各話冒頭に掲げられる短い挿話に隠された意味も、おぼろげにではあるが理解が進む。
もう一つ、白い犬が出てくる有名な文学作品に触れておこう。察しのいい人は本書の副題「はじまりの春は犬を連れた人妻と」からピンと来るかもしれない。そう、『犬を連れた奥さん』のことだ。あのチェーホフの代表作の一つ、白いスピッツ犬を連れた人妻に恋をする不倫文学である。あちらでは語り手の男性は子持ちの壮年であり、本書とは男女の力関係が異なることに留意するとして、『晴追町~』第3話には『犬を連れた奥さん』へのオマージュと思しきシーンがある。元ネタを踏まえて読み直すと、初読時とは異なる趣が楽しめることだろう。
もちろん、これを偶然の一致として片付けることもできる。だが、あの『文学少女』シリーズを書いた著者がチェーホフを知らないとは考えにくい。知っている人だけが気付く程度の小ネタを仕込んでいると読み解くのはそう的外れではあるまい。作者の仕掛けた遊びに付き合い、元ネタ「かもしれない」ものを念頭に置き、頭を悩ませながら読んでいくのも読書の楽しみのひとつだ。『犬を連れた奥さん』は短い話だし、今なら「青空文庫」でも読める。気になった方はチェックしてみてはいかがだろう。
ところで後書きでは『異類婚姻譚』についても触れられているのだが、まさかひまりさんの勤め先をクリーニング屋に設定したのは「異類」と「衣類」をかけたシャレだったのでは……なんてことは、ないですね、さすがに。
レビュアー
ミステリーとライトノベルを嗜むフリーライター。かつては「このライトノベルがすごい!」や「ミステリマガジン」にてライトノベル評を書いていたが、不幸 にも腱鞘炎にかかってしまい、治療のため何年も断筆する羽目に。今年からはまた面白い作品を発掘・紹介していこうと執筆を開始した。