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2025.08.26

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パイロットの墓場と言われた戦場──生き延びた零戦搭乗員は「戦後80年」に何を語ったのか

零式艦上戦闘機(略称:零戦)は、性能・デザインともに秀逸な「名機」として、対戦国にも一目置かれる存在だった。その設計者・堀越二郎をモデルに、宮崎駿監督がアニメーション映画『風立ちぬ』(2013年)を制作したのも記憶に新しい。いまでも飛行機好きには人気の機体だが、太平洋戦争末期にはその多くが特攻機として悲愴な運命を辿った。日本人にとっては、栄光と悪夢を同時に体現する象徴的存在である。

その零戦に搭乗し、からくも生き残った者たちは戦場で何を体験し、どんな戦後を生きてきたのか。本書はその貴重な証言集である。著者は、講談社の雑誌「FRIDAY」の元専属カメラマンで、1990年代から零戦搭乗員と関係者への取材を開始し、ノンフィクション作家デビューした神立尚紀。彼がどんなきっかけでライフワークと言える取材の旅を始めたか、どんな経緯を辿り、どんな人々と会ってきたかという軌跡を描いた作品でもある。著者と証言者たちの付き合いは約30年にわたり、その間、世を去る証言者も多かった。「戦後」という時代の変化を感じずにいられない歳月だったことは、想像に難くない。

零戦に乗り始めたとき、多くの搭乗員たちは20代の若者だった。その記憶は溌溂(はつらつ)として、瑞々(みずみず)しくさえもある。たとえば、1940年9月の零戦の初空戦や、1941年12月の真珠湾攻撃にも参加した進藤三郎氏は、初めて零戦(当初の名称は十二試艦上戦闘機)に乗ったときの感覚をこう語る。
「乗ってみるとね、素直な操縦感覚に『これはいい飛行機だ!』といっぺんに気に入った。前方視界がよく、地上滑走の安定性がいいから離着陸が楽で、密閉式の風防で風圧がかからないし、エンジンの爆音も静かに感じる。可変ピッチのプロペラも、エンジン出力のロスが抑えられて有効だと思いました」
同じく、零戦の初空戦に加わり、中国・重慶での爆撃任務にあたった岩井勉氏の述懐も印象深い。まるでスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『太陽の帝国』(1987年)の一場面を観ているようだ。
「爆撃中は、ものすごい対空砲火の弾幕でした。そんなときに、二番機の光増政之一空曹が、風防のなかでニコッと笑いよったのが印象に残ってます」
零戦初空戦の模様は、進藤三郎さんの章で触れたとおりだが、岩井さんの回想はより瑞々
(みずみず)しい。
「なんときれいな、と思いました。その頃はカラー何とか、という言葉はないから、『総天然色』です。零戦が明るい灰色で、複葉のE-15は濃紺、単葉のE-16は緑色と、それぞれ色が違う。機銃弾には四発に一発、曳痕弾が入っていますが、それがバァーッ、バァーッとまるで紙テープを投げたように大空を飛び交う。この日は風がなく、それが何秒か空に残りよるんです。真白い落下傘、火を噴いて墜ちる敵機、爆発する敵機。何とまあ、空中戦というのはきれいなもんだわい、と見とれてしまいました」
1938年から1941年まで続いた重慶爆撃による死者数は、2万人近くともそれ以上とも言われる。零戦は陸上攻撃機を護衛し、迫りくる敵機を次々と撃墜して大いに作戦に貢献した。その史実の重さも、現代の我々は意識しながら読むべきだろう。

搭乗員たちの視点から語られる太平洋戦争の推移は生々しい。極秘裏に進められた真珠湾攻撃の緊迫感あふれる描写もあれば、敵国の技術性能向上と艦隊規模の違いに圧倒的な差をつけられていく過程、やがて特攻という末期的手段に雪崩(なだ)れ込んでいく状況も、臨場感たっぷりに綴られる。零戦搭乗員のなかでも飛行時間・実戦参加回数ともに最も多く、同僚から深く敬われたという角田和男氏の言葉には、当時の戸惑いとショックが率直に表れている。以下は、フィリピンの飛行場で初めて特攻隊の出撃を目撃したときの記憶だ。
「一番機の搭乗員は飛行帽をつけていましたが、二番機、三番機の搭乗員は、飛行機に乗るとき飛行帽と飛行眼鏡をはずし、整備員に手渡していた。飛行帽の代わりに日の丸の鉢巻を締めていて、これはどうしたことだろうと不思議に思いました。被弾して油が洩れたり、火災を起こしたりしたら助かる見込みはなくなるからです。緊急の邀撃戦ならともかく、準備を整えて出るはずの攻撃に無帽とは変だと思いましたが、あとで聞くと、二〇一空では零戦に二百五十キロ爆弾を積んで敵艦に体当りすることになったとかで、あれがその特攻隊、すなわち敷島(しきしま)隊の出撃だったとのことでした。
(中略)
体当たり攻撃と聞いたときは、胸が締めつけられる思いがしましたね。これまでの負け戦を思い出し、来るべきときがきてしまった、そんな感じでした」
しばらくのち、角田氏自身も特攻隊員として指名されることになる。小作農の次男として生まれた角田氏は、生活と自立のために海軍航空隊の道を選んだ、とびきりのリアリストでもあった。彼が語る特攻隊員としての心構えも、あとづけの美学とは異なる、虚飾のない現実味がある。
「私は特攻指名されてからは、特攻以外で死ぬのはいやでした。というのは、賜金(しきん)が違うんですよ。特攻で戦死して二階級進級して、功三級の金鵄勲章(きんしくんしょう)をもらうと、当時の金で二万円か三万円もらえる。それから、遺族手当てとかなにかを入れると、女房は家も建てられるし、子供も学校に入れて十分に生活していけるな、と思っていました。通常の戦死で一階級の進級だと、金鵄勲章も功五級までで、もらえる金額が全然違ってくるんです」
パイロットたちが語るのは、敵との戦闘、任務中の記憶だけではない。異国の戦地での日常的光景には、慰安所の存在も含まれる。彼らの目にも、その女性たちの痛ましさは焼きついていた。
日本海軍の一大拠点であったラバウルには、戦闘部隊だけでなく病院や慰安所の施設も完備している。
「慰安所は士官用、下士官兵用と分かれていて、士官用の慰安婦はたいてい日本人でした。日本人は沖縄の人が多かったんですが、下士官兵用の多くは、朝鮮から来た女性でした。慰安婦はみんな若いですよ。数え年で十七、八ぐらいですか。二十歳という人が最高でしたね。
法律的なことは知りませんが、本人たちは、戦死したら特志看護婦として靖国神社に祀ってもらえると言っていました。そういうふうに教えられていると。だから、空襲があっても防空壕に入らない子もいたんです」
本書にはテストパイロットも数名登場するが、その証言はいずれも興味深い。「零戦が深窓の令嬢とするなら、紫電改は下町のおてんば娘」と語る志賀淑雄氏の回想は、飛行機好きの心も捉えることだろう。また、当時の貴重な日記帳とアルバムを残していた佐々木原正夫氏は、1945年7月に長崎県大村基地に赴任し、恐ろしい光景を目撃する。
「大村基地と長崎は、直線距離で二十キロ足らずですから、飛行機なら目と鼻の先です。離陸してみると、長崎上空は黒雲に包まれ、その下は雨が降っているようでした。それで、一通りの飛行テストを終えて、午後三時頃、着陸前に雲の下に入ってみたんです。地上は完全な焼野原だったですね。真黒な雲が広がっていて、雨がザーッと降っていて。高度五百メートルぐらいで、残骸と化した浦上天主堂のまわりを旋回して見てみましたが、そりゃあ酷(ひど)いもんでしたよ。飛行機の調子はよく、三時頃着陸して、『今日は非常にいいよ』と言ったら整備員は喜んでいましたが、私はいま見た長崎の光景が目に焼きついて、沈痛な気持ちでした」
本書は、零戦搭乗員たちがいかにして唐突な終戦を迎えたか、そして苛酷な戦後を懸命に生き抜いたかという記録にもなっている。ひときわ数奇な運命と言えるのが、「日本海軍最強」といわれた部隊の飛行隊長をつとめ、のちにレコード会社重役として日本でのカーペンターズの大ヒットを生み出す鈴木實氏だろう。その驚きの経歴はぜひ本書で読んでほしいが、以下に一部を抜粋する。
「ああ、あなた、どこかで見たことのある顔だと思ったんだ。ヒゲ部隊の隊長か」
と、よく覚えていた。二〇二空の搭乗員たちは鈴木さんの命令で髭を伸ばし、「ヒゲ部隊」と称していたことは前に述べた通りである。小倉氏は鈴木さんに、
「あなたの部隊がマカッサルに来たら、料亭から何から、客はみんな逃げ出しちゃう。荒っぽいし飲んだら暴れるしで、みんな怖れてましたよ。上空哨戒は頼もしかったですがね」
と言い、互いの戦地での話にすっかり意気投合した。そして、その日のうちにキングレコードの親会社である講談社の野間省一社主に引き合わされ、講談社が、占領軍の方針による財閥解体をチャンスととらえて設立準備中の貿易会社、キング商事に「国内貿易課長」の肩書で入社することになった。ところが翌二十三(一九四八)年、キングレコードのほうに販売課長の欠員が出たのでそちらに回ることになり、鈴木さんは、思いもよらずレコード会社に勤めることになる。
戦争といえば悲惨な戦場のイメージしかない者、あるいは飛行機乗りの勇壮な英雄譚を期待する者、そのどちらにも本書は新鮮なインパクトを刻みつけることだろう。確かなのは、あの戦争で「幸福な記憶」を得た者など、誰ひとりとしていなかったということだ。それは証言者たちがふと口にする言葉のはしばしからもわかる。
小町さんは、自分が敵機を何機撃墜したなどという武勇伝を話すことを、何よりも嫌っていた。
「『撃墜何機』ってヒーローみたいに言う人がいるけどさ、墜
(お)とした相手にも家族がいるんだぞ」
あるとき、ポツリと漏らした一言に、小町さんの真情がこめられていたと思う。
いつの取材のときだったか、進藤さんに、これまでの人生を振り返っての感慨をたずねてみたことがある。進藤さんは即座に、
「空
(むな)しい人生だったように思いますね」
と答えた。
「戦争中は誠心誠意働いて、真剣に戦って、そのことにいささかの悔いもありませんが、一生懸命やってきたことが戦後、馬鹿みたいに言われてきて。つまらん人生でしたね」
戦時中は英雄とたたえられ、戦後は悪人のように扱われた零戦搭乗員たち。忸怩(じくじ)たる思いを抱えつつ、それが戦争というものだと受け入れた者もいれば、どうしても納得いかないまま時代を歩んだ者もいたことだろう。いずれにしろ、彼らの「体験」は本物であり、その記憶と言葉はかけがえのないものだった。しかし、いまや証言者の数は限りなく少なくなっている。その肉声を記録した本書は、戦後80年という節目に、いよいよ貴重かつパワフルな存在感を我々に提示する。「声」を残すことの重要さを、読者はこの本から必ず受け取るはずだ。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

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