スリリングな「確実な一次史料」
インターネット上のおしゃべりでよく出てくる決め台詞に「ソース(=一次情報)は?」というものがある。確かな事実に基づいた話なのか、ちょっと面白おかしく盛っているのか、はたまた大ボラなのか。
つまり、ほんの数ヵ月前の話でも一次情報はブレる。では1000年前の確かさはどう担保するのか。到底無理なのでは……なんて投げ出してはいけない。私たちには古記録が残されていて、それを読み解く歴史学者がいる。
『紫式部と藤原道長』は、究極の一次情報である一次史料をもとに紫式部と藤原道長の生涯と平安時代の権力闘争を描く。史料ってこんなに豊富に残っているのか!と驚く。そしてそれらから浮かび上がる人間の行動や思惑がスリリングでおもしろい。ダイナミックな政治劇はもちろん、「トホホ……」な悲哀だって味わえる。
著者の倉本一宏先生は日本古代史と古記録学の専門家であり、2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の時代考証を担当されている。
そう、次の大河ドラマの主人公は紫式部(と藤原道長)なのだ。『源氏物語』の作者の生涯を1年かけてドラマにする……楽しみだ。だって考えてもみてほしい、なんであんなに超絶長くておもしろい文学作品が生まれたのか。これまでに何人もの有名作家が現代語訳に挑戦してくれたおかげで、現代でも気軽に読めるが、全巻揃えるとその厚さにギョッとする(私は円地文子訳のファンです)。で、「超絶長いな」と思うと同時に「これ、当時は何ページあったの? なんで書けたの?」と不思議だったのだ。
本書はまさに「なぜ紫式部は源氏物語を書けたのか」に触れている。そして私が余計なお世話ながら気にしていた「何ページあったの?(紙って高級品じゃないの?)」といったリアルな事情もわかる。これらの背景には、本書のもう一人の主人公・藤原道長が大きく関わっている。
紫式部と道長が同時期に生きたことは、けっして偶然ではない。この本の中で明らかにしていくが、道長の命令と支援があったからこそ、紫式部は『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆して、世界最高の文学の金字塔を打ち立てることができたのであるし、『源氏物語』が道長の管轄下で執筆されたからこそ、三人目の外祖父摂政や、摂政を頼通(よりみち)に譲った後も、「大殿(おおとの)」、さらに出家した後も「禅閤(ぜんこう)」と称されるほどの、日本史上未曾有の権力を手に入れることができたのである。
道長が権力の頂点に上り詰めていく様子を本書で確かめていくと『源氏物語』の魅力もわかってくる。高貴で麗しい光源氏による恋と宿命のモテモテ話(も、楽しいんですけどね)だけじゃないのだ。
一流学者を父に持つ早熟の天才少女
紫式部はどんな少女時代を送ったのか。『紫式部日記』から次のような逸話が紹介される。
私の弟の式部の丞(惟規)という人が、まだ子供の頃に漢籍を読んでいましたとき、私はそれをそばでいつも聞き習っていて、弟が読み覚えるのに手間どったり忘れたりするようなところでも、私は不思議なほど早く理解しましたので、学問に気を入れていた父親は、「残念なことに、この娘(こ)が男の子でなかったのは、まったく幸せがなかったのだ」と、いつも嘆いておられました。
いかにも天才少女のエピソードらしい。ここに倉本先生はこんな補足を添える。
まだ惟規は幼かったのであろうし、いったいに女子の方が早熟であることを考えると、年長の紫式部の方が優秀に見えたのも、無理からぬところである。まして姉が希代の天才紫式部、父が一流の学者為時だったのであるから、惟規もさぞやたいへんだったであろうと、同情を禁じ得ない。惟規自身の能力の限界と放逸(ほういつ)な性行(せいこう)も、やがて明らかになってくるのであるが、それとても天才を姉に持ったことが影響している可能性も考えられよう。
なお、惟規は歌才には恵まれていたようで、勅撰集(ちょくせんしゅう)には『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』以下に一○首、入集しているし、家集(かしゅう)に『藤原惟規集(ふじわらののぶのりしゅう)』がある。
なんだか悲喜こもごもが感じられて、紫式部とその家族の姿が鮮明に浮かぶ。とても好きな箇所だ。
父・為時が貧しい学者であったことも古記録は示している。為時が頼りにしていた花山天皇の退位とともに、為時は閑職に追いやられるどころか無官となる。
花山が退位(たいい)した後、為時は一気に不遇となり、道長政権下の長徳(ちょうとく)二年(九九六)の除目(じもく)まで、十年間も無官のままであった。(中略)
それどころか、詩会や内宴(ないえん)も含め、一切の史料に姿を現わさないのである。(中略)あまりに花山やその側近に接近しすぎたことが、兼家に疎んじられたためである。
存在感ゼロ! 「史料に現れない」ことからここまでのトホホ感を味わうことになるとは。本書は、この為時の不遇の話に限らず、「いかに言及しているか」に加えて「何に言及していないか」も指摘する。ちなみにこれは現代のSNS上で人間関係の機微を推し量る上での有効なテクニックでもある。
古記録から読み取れる道長の姿もまた生き生きとおもしろい。藤原兼家の末っ子である道長は、成長するにつれ、父の出世に伴い存在感を増していくのだ。
永祚(えいそ)元年(九八九)に入ると、『小右記』に道長に関する記事が増えてくる。(中略)
四月二十八日におこなわれた兼家邸の競馬(くらべうま)では、道長は衣を脱いで乗り手に下賜(かし)している(『小右記』)。気前よく人々に禄(ろく)を下賜するという後年の道長の特徴がすでに現われている記事である。
父・兼家を怒らせた若者らしい事件なども紹介されているのでぜひ読んでほしい。本書の前半は、大河ドラマが始まってから2ヵ月あたりで感じる青くのどかな印象に近い。為時の赴任の都合で越前へ同行したときの記録など、紫式部の「疲れたよ~」という声が聞こえてくるようだ。
そして、中盤にさしかかるにつれ、二人は大人になり、道長の摂関政治への道や紫式部の独特な男性観が見えてくる。たとえば結婚に関する古記録を丹念に調べれば、道長とその妻たちの関係性が察せられ(リアルだった)、晩婚かつ嫡妻ではなかった紫式部の結婚生活が『源氏物語』の女たちの心情に陰影を差し込んだことに気がつくはずだ。
紙問題
さて、日本史の授業では「源氏物語の作者・紫式部は、宮中において、藤原道長の娘・彰子の教育係だった。彰子は一条天皇の后である」と教わる。道長については「自分の娘をつぎつぎと入内させ、天皇の外祖父となって権力の頂点に上り詰めた。あと望月の歌を詠んだ」だろうか。
この非常に大まかな「点」をリアルな姿に書き起こすのが本書の魅力だ。
一条天皇と彰子とのつながりを確かなものとし、道長が摂関政治を確立させるために、道長は紫式部に『源氏物語』の執筆を依頼した……という可能性が、あらゆる古記録や古文書をもとに紹介される。
たとえば、冒頭で書いた「紙」の問題だ。古文書にあたると当時の紙がいかに高価かつ入手困難なものであったかがわかる(細かなエビデンスがどんどん示されて楽しい! 必読!)。無官の学者の娘である紫式部がそう簡単に紙を手にできたとは考えにくい。ここで登場するのが道長だ。
『紫式部日記』には、寛弘五年(一〇〇八)十一月に彰子の御前で『源氏物語』清書本を作製したことが見えるが、その際、道長から紙・筆・墨・硯が提供されたと記されている。
しかも道長はとびきり良質な紙を大量に持っていたことが他の古記録からも読み取れる。つまり紙問題があっさりクリアされるのだ。そして一条天皇が『源氏物語』の愛読者であったことも記録に残っている。
闘争の痕跡である「呪い」
後宮に仕え、道長の摂関政治を間近で見てきた紫式部だからこそ『源氏物語』がかくもスリリングな物語であることも著者は指摘する。
特に登場人物の成長につれて見られる政治的な豹変(ひょうへん)は、読み進めるとともに目を見張らせるものがある。権力者・外戚(がいせき)と化す光源氏、光源氏の政敵と化す摂関家(せっかんけ)嫡流の元の頭中将(とうのちゅうじょう)、女院(にょういん)として権力を振るう藤壺(ふじつぼ)の姿は、もはや源高明(たかあきら)や伊周を超えて、摂関政治史における道長や詮子(せんし)の実際の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる(やがて彰子も詮子のようになる)。
『源氏物語』には人間の業と因縁とパワーゲームがごくごく自然に現れる。それは、道長や紫式部が生きた現実も同じであると本書は説く。
「御物怪(“御”がついているところがポイント)」に憑(つ)かれながらの彰子の出産、道長や子孫たちの病、度重なる宮中の焼失……不気味な泥のような呪いの数々が古記録に残されている。そしてそれらの厄災は、すべて当事者たちに思い当たる節があるから呪いと呼ばれる。派手な合戦や表立った焼き討ちはないが、平安時代も激しい闘争の時代だったことがうかがえるのだ。
三条天皇を譲位させたくてしょうがない道長と、己の影響を少しでも残したい三条天皇とのねちっこい攻防! 湿度の高いスリリングさが記録に残っている。そして、そんなドロついた攻防のほとりに紫式部の気配が微かに漂うのも、またたまらない。これがフィクションじゃないなんて。
史実のおもしろさがよくわかる本だ。そしてこんな豊かな史実からどんなフィクションが編み出されるのか楽しみにもなる。放送まであとしばらくはお預けの大河ドラマだけど、本書を読んだあとは、その配役表だけでも「なるほど、そうきますか」なんてウンウンうなずいて隅から隅まで眺めてしまう。フィクション派にも、史実派にもおすすめな一冊だ。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
twitter:@LidoHanamori