学問はどうやって生まれるか
講談社の学術文庫を読んでいると、「学」の途方もなく広いことにハッとなる。食も旅もユーモアも、すべて学を秘めている。私が遊んだり泣いたりしている時間と、誰かが追い求めてピカピカに磨き上げた学との接点を見つけると、とてもうれしい。
『妖怪学とは何か 井上円了精選』も楽しい1冊で、昼も夜もトイレや衣装ダンスを恐れた5歳の自分に読み聞かせてやりたいと思った。本書は明治時代に妖怪を学問として研究した哲学者・井上円了の著作や講演録を収めたアンソロジーだ。
円了は「妖怪博士」などと呼ばれた人だ。そして研究という名の妖怪撲滅に数十年を費やした。幽霊、コックリ、鬼火、狐憑き……もう片っ端から退治されていく。「おばけなんてないさ」という童謡があるが、あの歌のままだ。
円了の一刀両断ぶりは本書に収められた『おばけの正体』で堪能できる。日本全国の妖怪の噂や伝承の正体を、家庭でも読んでもらうべく短く平易な言葉で記したもので、電車での移動中に読むと山手線だと一駅一妖怪といったペースで楽しめる。5歳の私に贈りたいのもこの作品だ。簡潔で美しい。
さて、「妖怪の話だよ」と聞くとウキウキしてしまう人は多いはずだ(私はそうなる)。すると「妖怪ってホントに学問になるの?」と気になるのも、自然な流れだと思う。本書はその疑問に答える構成となっている。学術文庫らしさもここにある。
編者の菊地章太先生による編者序文や各収録作ごとに添えられた解説が、妖怪学探訪のガイドとして有効だ。菊地先生の示したヒントを携(たずさ)えて円了の文章をたどると、円了が「なぜ、それを研究しようと思ったか」の輪郭がつかめる。そう、「なぜ」は重要だ。研究者の動機と志は、学問の核につながっている。酔狂な妖怪退治おじさんではないのだ。
寺の息子として生まれた円了は、東京大学の文学部哲学科に進み、やがて私立哲学館を創設する(勝海舟が哲学館の経営にアドバイスをしたエピソードも紹介されている。非常に面白いので是非読んでほしい)。この哲学館での講義に妖怪学があった。
哲学の普及をみずからの使命とした円了にとって、まず立ち向かうべきは、世間にはびこる無知蒙昧なる妖怪の迷信を打破し、不合理な現象を合理的に解明していくことだった。妖怪の存在を否定するために妖怪を研究したのである。そしてその成果を「妖怪学」という正規の科目として哲学館で講義した。円了という一個人のなかで、哲学と妖怪学は分かちがたく結びついている。両者はじつに表裏一体をなしていた。
近代化に向かう明治で、円了は不合理な妖怪を見過ごせなかったのだ。だから日本中の妖怪を調べ、「虚怪」や「実怪」といった分類を与え、それぞれの特徴を述べた。まるで植物分類学のような円了の妖怪解説は、本書の『妖怪学講義録』で読むことができる。意識と無意識の世界を股にかけ、夢や思惑や恐れといった人間の弱く薄暗いところをバンバン指摘する痛快な講義だ。
ところで、妖怪を全力で否定する合理的な円了は、不合理な妖怪なんて大嫌いだったのだろうか?
神の力で雄鶏が雌鶏に変わる?
円了の妖怪退治とは、奇っ怪な事件を合理的に解き明かすことだ。『おばけの正体』の「第九十三項 鶏(とり)の変性する原因」では、鶏の性が雌から雄に変わる神秘現象を真っ向から否定する。
神社仏閣の境内に信者より鶏を献納する所がある。其処(そこ)では雌鶏を献納しても皆雄鶏に化すると申すが、実際これを見るに雄のみにして雌はおらぬ。
不思議(たしかに昔伊勢神宮で見かけたのも立派な雄鶏だった。玉砂利の上をユサユサ歩いていたあいつは、立派なトサカもあったし、雄鶏に違いない)。しかし円了は「いかに神仏の力にても雌を雄に変化せしめ得る筈はない」と断じ、こんな事情を明かす。
余が曾て或る地方の神社に参拝し、鶏の雄のみ沢山集まり居るを見て、雌鶏もこの境内に入れば神力によって皆雄に化するというが事実如何(いかん)と尋ねたれば、その地の紳士が答うるに、神力にあらずして人力であると申した。その所謂人力とは、他より信者が雌鶏を献納しても、その近傍に住する民家にては雄鶏より雌鶏を好む為にひそかに己れの有する雄鶏と引替(ひきかえ)をするのであるそうだ。さすれば何も不思議の事はない。
「なーんだ」と「なるほど」を同時に言いたくなるような種明かし! そしてこの話の冒頭を読んですぐに「そういえば伊勢神宮で見た鶏も雄だったな……」と勝手に肉付けをした自分の反応も、妖怪話がどんどん膨らんでいくさまと似ている。そもそも、大晦日の伊勢神宮の薄闇で見た鶏は本当に雄鶏だった? と冷静に自問すると、急に雄鶏の姿があやふやになってくる。そして円了だってこう断じている。
最初は些(いさゝ)かなることも人より人に伝わる間に遂に大怪となること往々これあるものなり。
こういった調子であらゆる怪事を一刀両断するわけだが、たぶん彼は「妖怪嫌い」ではない。なぜなら円了は『おばけの正体』の中だけでも127もの妖怪を撃破している。撃破しすぎだ。自ら進んで妖怪に近寄り、妖怪現象をじっと見つめて「これは虚怪の誤怪に属する妖怪だな」などと分析していたのなら、少なくとも嫌いではないし、好きじゃなきゃできないのではと思う。
ところで、円了の妖怪分類のうち「真怪」と呼ばれるものがある。この世の大半の妖怪は、神社仏閣の雄鶏のように「なーんだ」で片付けられる虚怪に属している。そして虚怪以外の妖怪が実怪であり、その実怪を更に分類すると真怪があらわれる。この真怪については、『妖怪学講義録』では次のような言葉で簡潔に記されていた。
真怪に至りては到底人智の以て窺い知るべからざるものを云う。
非常に胸がざわつく一文だ。虚怪はこれでもかというほど細かく説く円了が、真怪についてはこれだけ。ゾクッとする。合理的に妖怪を撲滅した円了ですら「人智では計れないもの」を認めていたのだ。この事実は本書のあちこちで明かされる。妖怪という名の無数の砂粒を洗い続け、砂金を一粒だけ見つけるような仕事の先に、哲学者・円了が求めた真怪が待っている。学問そのものじゃないか。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
twitter:@LidoHanamori