予言者は何を語る人なのか
渋谷の宮下公園はいつのまにかミヤシタパークという名前の派手な商業施設に変わったけれど、そのほとりにある美竹教会は昔から変わることなく静かで美しい建物のままだ。『予言者の研究』の著者・浅野順一先生は、この美竹教会を約90年前に作った牧師であり、旧約聖書学を専門とする神学者でもあった。本書の主な舞台は紀元前9~8世紀のイスラエルだ。旧約の宗教の世界にたびたび現れたエリヤ、アモス、ホセア、イザヤ、ミカ、エレミヤといった「予言者」を軸に、イスラエルの宗教史を紐解く。
恥ずかしながら私の旧約聖書に関する知識は、子どものころに観た映画『十戒』で構成されているし、信仰している宗教もユダヤ教やキリスト教ではなく日本の神道だ。なので、そろりそろりとお邪魔する気持ちで本書を手に取ったのだが、旧約の宗教の世界はとてもおもしろかった。予言者がなぜ存在し、いかに生き、何を伝えていたかを知ると、偶像崇拝が禁じられている理由や、旧約の宗教からキリスト教に受け継がれた思想が見えてくる。さらに宗教を離れ独り歩きしている「唯一神」や「選民」といった言葉の本来の意味と尊さを感じることができる。
そして本書で私が最も心ひかれたのは、浅野先生の宗教観だ。これから先、何度も読み返すと思う。
神ヤーウェと対立するもの
第1章「エリヤの宗教改革」は、イスラエル人に降りかかった社会的危機をベースに、予言者エリヤの姿を伝える。エジプトを脱出して約束の地・カナン(現在のパレスチナ地方)にたどり着いたイスラエル人は、生活様式の変化に従い、信仰する神ヤーウェとの間に大きな矛盾を抱えてしまう。先住民のカナン人は農耕民であり、彼らの信じる神はバアルという。
雨を降らし日を照らし植物の生育を主宰する神はバアルであり、その女神アシュタルテである。万軍の主、牧羊者の神である砂漠のヤーウェは元来農民の神ではない。ここにイスラエル人の直面せる問題があった。
イスラエル人もカナンで生きていくために農作をする。農作をするということは祭事が発生する。するとどうなるか。
年の終りに神の豊かな恵みを祝い、感謝の祭りを行なうにあたっても、その手続きをバアルの祭司に問いたださねばならなかった。(中略)彼らはこのように宗教の礼拝形式を通して次第次第にバアルの感化に近づきつつあった。その速度も恐らく極めて迅速であったのであろう。彼らは祖先の神ヤーウェを拝すべくバアルの儀式によらざるを得なかったのである。
ここで登場するのが予言者のエリヤだ。エリヤは、シナイの山でヤーウェが呼びかける声を聞き、イスラエルの民にバアルかヤーウェのどちらかを選べと迫り、やがて「神はヤーウェである」と悟らせる。この予言者エリアが神をどのように捉えていたか(神観)を、浅野先生はこのエピソードをもとに、次のように説明する。
バアル信仰は自然のうちに神を発見しようとする内在の宗教である。(中略)しかるにヤーウェ信仰はあくまでも自然から超越するところの神観を持つ。自然の現象を通して、ヤーウェはその栄光をイスラエルに示すことはあろう。しかし自然そのものは決して神ではない。
「自然そのものは決して神ではない」は、その後の章でもたびたび登場する考え方だ。そして自然そのものではない超越的存在の神ヤーウェの意志を実現するべく、乱れた世に警告を発するのが予言者だったのだという。未来を予言すること自体が予言者の目的ではなく、ヤーウェの考えを示すことが彼らの使命だった。
このバアル信仰とヤーウェ信仰のゆらぎはその後も続く。礼拝の形式は残ったからだ。このことはその後の章でもたびたび述べられる。
イスラエル人は、ヤーウェの名において彼らの神に礼拝を捧げた。しかしバアル宗教祭儀を彼らは駆逐することが出来なかった故に、民の信仰はこの祭儀を通じて事実上再びバアルの信仰に復帰したように思われる。ホセア以後歴代の予言者の攻撃点が偶像礼拝にあった事は、偶像の中に潜むバアル的信仰の撲滅を目的としたからであろう。
今までは「なぜかダメらしい」と乱暴に覚えていた偶像崇拝の禁止を、より自分の側に引き寄せて考えることができた。
罪と救い
本書は各章ごとに予言者を取り上げ、生い立ちや神観、そして罪観について述べていく。キリスト教やユダヤ教で大切にされている「罪」の考え方が、私は昔からとても不思議だった。
第4章「イザヤの贖罪経験」では、予言者イザヤが神ヤーウェの声を聞く資格を得るために自分の罪を贖う。この章を読んで私は罪の輪郭を初めて感じた。
イザヤは聖なる神の前に立って初めて自己の弱小と汚穢を感じた。我々の人間的な体験においてさえも自分の尊敬する人格の前に出る時、自己の劣弱を恥じる羞恥心を持つ。聖き人格との対立のないところに、深き罪の体験はあり得ないと思う。汎神論者が人間の道徳的罪悪に対し、往々無頓着であるのはこの故であろう。
このイザヤの贖罪の話をもとに、浅野先生の宗教に対する考え方が展開される。それは、旧約の宗教と予言者にまつわる滝のような知識の間で静かに光っている。私はそれを見つけるたびに息をのんでそっと読んだ。
贖罪の経験に徹底しない宗教運動は必然的に浅薄である。それは畢竟、人の業または人の工夫に過ぎず、そして神の創業ではないからである。しかし使命感なき宗教生活は魂の独善主義に過ぎない。このようなところに真の救いのあり得るはずがないと思う。我々はまず救われて伝道し得る資格が与えられる。しかし我々は伝道することによってまた救いを確実にするのではあるまいか。
美竹教会で浅野先生のお話を伺うことができたらどんなによかっただろうかと何度も想像した。
共同体の宗教から個人の宗教へ
本書は基本的に1章ごとにひとりの予言者とその思想にフォーカスを当てているが、例外としてエレミヤがいる。「宗教的体験において最も深刻なる予言者」と浅野先生が評するエレミヤは、40年あまり予言者として世界各地を歩き、苦難の果てにエジプトで殉教した。
それまでの予言者とエレミヤの違いをいくつか紹介したい。
エレミヤほど自我の自覚の鮮明なる予言者はあるまい。彼は単なる神の代弁者ではなく、選ばれた神の器であった。彼の生涯が苦悩にみちていたのは彼の良心の感覚があまりにも鋭敏であったためではあるまいか。鮮明なる意識の働かぬ所に、真剣な信仰生活はあり得ないと思う。
繊細な心を持つエレミヤは、自分が予言者には相応しくないと何度もヤーウェの召命を拒む。でもヤーウェはエレミヤの若さや未熟さを予言者失格の理由にはせず、予言者となることを強いる。そんなエレミヤが現れたことで、イスラエルの宗教に変化が訪れる。
エレミヤは、旧約において人格的個人的宗教の最初の主張者であったと見てもよい。(中略)元来イスラエルの宗教においてその単位は個人に非ずして国民全体であった。神ヤーウェの前に立つ者はイスラエルそのものであり、イスラエルの個人個人ではない。しかるに旧約の宗教はエレミヤにおいて、従来共同体的であった宗教の単位が個人にまで推移して行ったのであるから、エレミヤはイスラエルの宗教思想史において画期的な人物として極めて深い意義を持っている。
本書で語られるエレミヤの予言者としての活動を読むと胸が痛くなる。他の予言者の章では感じなかった痛々しさは、個人的な行いだからなのか。
そしてこの変化は、やがてキリスト教へとつながる。
しかるに他方エレミヤに始まる個人的人格宗教は、ヨブ記或いは詩篇の信仰にまで深められて行った。(中略)詩篇に流れる個人的な宗教経験は、ユダヤ末期における黙示文学の基調をなし、イエス・キリストの宗教にまで流れ入った。このようにエレミヤにおいてイスラエルの国民的宗教はひとまず解体し、爾後個人的人格的宗教として新しい出発を始め、来たるべき神の国は新しい基礎の上に再建せられねばならなかった。それ故スキンナーはエレミヤを指して、「予言者の終りにして詩人の初めなり」と称している。
このエレミヤの章から先は、「主の僕」というイザヤ書の歌を基調に、イスラエルの宗教がキリスト教へと引き継がれるさまが語られる。これがまたぞくぞくとおもしろいのだ。もう一つの大きな川に出合うような感覚が得られる。
我らの主イエスは、「主の僕」の歌を彼自身の出現の予言として受け、その精神を身において実現しようと努力し、ついにこれを十二分に成就せられたのであると解釈するほかはない。(中略)
旧約の宗教は見えざる神の導きをたどって、新約の宗教へと発展し飛躍して行った。新約は旧約の王冠である。新約なくして旧約はまっとうせられない。しかし、旧約の精神を理解せずに新約の信仰を会得することは不可能である。特に我々キリスト者は、イスラエルの律法者、予言者、詩人に負うところ大である。
はるか昔のイスラエルで、社会の乱れが国を滅ぼそうとしたとき、予言者は神ヤーウェの意志と実践を呼びかけた。これをひとつの宗教のなかでの出来事とするにはあまりに大きくて、よその世界の話とは思えない。この他人事ではない感覚や、本書を読んで胸が熱くなったのは、自分の大ざっぱな信仰心によるものなのだろうか。社会へのうっすらとした不安にけしかけられたのか。それとも、およそ90年前にこの本を書いた神学者のひたむきさに感動したからなのだろうか。
浅野先生は本書を次の言葉で締めくくっている。文化や学問よりもはるかに大きくて、なにもかもをのみこむような、とても尊い姿だと思う。
「イスラエル予言者を研究することはやさしい、しかし予言者の如く生きることはむずかしい 」
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
twitter:@LidoHanamori