我々が生きている日常、そこで日々なにげなく行われている活動や思考、理解や反応。本書はそのひとつひとつについて「これは一体どういうことなのか?」と根本的な問いを投げかける、いわば日常の解剖書である。ほとんど生理学的、身体科学的な領域ともいえるが、あくまで本書が追い求めるのは哲学的考察である。たとえば以下のような導入で――
さて、最も頻繁に行為が問題になるのは、人が日常、一番多く発する問い、「どうしよう?」という問いを発し、それに答えを与える場面と思われる。
著者は『生きること、そして哲学すること』『食を料理する ―哲学的考察―』など多くの著書がある、哲学者の松永澄夫。本書では全四章にわたり、日常のさまざまな局面を解体・分析していく。そこにあげられるのは、おそらく誰もが身に覚えのある感覚、容易に共感できそうな具体例の数々だ。たとえば第一章「知覚における対象性成立の論理」では、沼のほとりに腰を下ろした“私”が味わう穏やかな時間という情景描写にはじまり、鏡に映った林檎、子どもの額に触れたときに感じる微熱、壁の向こうから伝わってくる(熱源の見えない)熱といった事物を「我々がどう捉えているか」、それらの知覚の認識過程が改めて解きほぐされる。
続く第二章「知覚的質と本当に在るもの」では、匂い、光、色、音といった、いわゆる「確かな手ごたえ」=触覚では掴みきれないようなものが議題にあがる。空虚や鏡像を把握すること、様々な物の性質を理解することも、我々がほぼ無意識に日常的に行っていることであり、それも哲学の命題たりうることを本書は示す。
非常にわかりやすく身近な例で論旨展開してくれるとは言え、何しろ本格的な哲学書でもあるので、スイスイ流し読みできるほど平易な文体ではない。が、だんだんと独特の読み味がクセになってくることも確かである。第二章終わり近くのトピック「現在という時」では、思いがけず(と言っては失礼だが)詩的で瑞々しい文体が炸裂しており、実に感動的だ。本書中盤で鮮烈に出現する、ひとつのクライマックスといえる。
星(というより星の輝き)はそれを見ている私のうちでは、今、私が見ている今においてこそその生命を燃やしている。花火の音は、音のする方へ行こうとしている私にとっては、それがどの位に離れているのか気になり、見える花火と音との時間の間隔が距離に換算されるが、花火の彩りに見惚れ、音のリズムに心地よく耳を傾ける私には、そのゆっくり流れる時間のうちで色彩も音も知覚されるがままに確定されて、そして、その確定せる内容が私の、ああ、こうして自分は今、居るのだ、という、その私の内容の一部になっている。
第三章「因果的理解と行為」では、文体は再びソリッドに戻り、出来事の因果性と法則性という議題に取り組む。どこか内容的に「物語」や「作劇」に置き換えて考えたくなるような章である。事実、「技術」と「芸」というトピックが隣り合っていたりするのも示唆的だし、なんと後半では「殺し屋による殺人行為」という物騒かつフィクショナルな具体例が登場したりする。物語表現の構造やセオリーなどについて考える人には、大いに刺激になる読み物かもしれない。
第四章「法則の概念と出来事の始まり」、そして本書末尾に置かれた「本文の哲学史的背景についての注解」では、西洋近代哲学史の歩みを振り返りつつ、それとは異なる自説の立ち位置を著者がより明確にする。このパートはまさに哲学書の本領発揮ともいうべき第2のクライマックスで、険しい山を登攀する覚悟で臨んでほしいが、注解ラストの一文に、本書の目的がこれ以上ないほど明解に文章化されている。ぜひ最後まで読んで、そのカタルシスを味わってほしいので、あえて引用はしない。
それにしても読み進めるほどに「哲学する」というのは大変なことだ、と思ってしまう(バカみたいな言い方で申し訳ない)。時には強い言葉で断定したり、否定したり、ひとつの事物をとことん掘り下げ、返す刀で別の仮説を展開したりと、とにかく仕事が多い。書き手は常に思慮深さをもって事物にあたり、なおかつ弱気な態度ではいられない。身震いするほど強硬な難問であっても、強気であればこそ掘り進められることもある。「こんな言い方もあるのか」と文学的に感嘆する表現も多々あり、その硬軟の緩急も本書の魅力である。最後にもうひとつだけ、第二章から好きなくだりを引用したい。
もの想いに耽る私の目に、遠く沼が見えている。ここで秋草が揺れる。風が冷んやり吹いて、枯れ葉が微かな音を立てる。沼の水が光り、どこか遠くから車のクラクションの音が聞こえる。風が吹いた時、水が光った時、クラクションの音が聞こえた時、それらは皆、確かに別の時で、それらの間に幾らかの時間が流れている。けれども、私は一つの時を、或るまとまった現在、ゆったりした幅のあるひとときを過ごしている。
(中略)
つまり、現在とは固定した無時間性でなく、現在自身が既に時間の生成の場、新しさが生まれ、滅び、新しい新しさに引き継がれる場であるのだから、その現在において様々の事柄が次々に生ずると言うのと、ゆったりと幅のあるひとときを言うこととの間に何の論理的不整合があろう。――
本書の初刊行は1993年だが、書かれている内容は現在でも新鮮で、興味深く読者を惹きつけるものである。2023年に読む意味があるかと問われれば、自信をもって「ある」と答えられる。コロナ禍という異常事態を経験した全人類の生活において、「日常」との向き合い方に、迷いやブレが生じていないわけがないからだ。本書はその日常を新たに捉えなおす、絶好の1冊である。念のため言っておくと、この読書体験がかつての「日常」を取り戻すとは限らない。むしろ新たにリセットするような、清新な感覚をもたらしてくれるはずだ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、