「はじめに」でつづられた著者の言葉に、思わず背筋が伸びた。
まず最初に楽器とはどのようなものであるかを明らかにしておかなければならないと思う。
音楽の演奏に用いられるものが楽器である、と考えることはきわめて当たり前で、また納得もゆく。では音楽とは何であろうか? これに対して完璧な答えを出すことは容易ではない。
副題の印象から「世界中の楽器を、歴史に沿って紹介してくれる本だろう」と予想していた身には、意外な始まりだった。「え! そこから始まるの?」と驚きながら読み進める私に、著者は「音楽」や「楽器」を定義する難しさを説きながら、まずは「音」と「音を出すもの」から考えてみよう、と提案する。それはまさに、本書のタイトルに沿うものだった。
著者は、外交官として働く父の赴任先だったフィンランドで、1930年に生まれた。長じてオーストリアやドイツのピアノ技術学校でピアノの調律と制作技術を学び、日本人女性として初めて、ドイツの国家資格である「ピアノマイスター」を取得する。その後は楽器学を専門とし、多くの著書や翻訳書を出版しながら、国立音楽大学にて教鞭を取った。のちに、同大学の名誉教授や楽器学資料館の初代館長も務めている。残念ながら2019年に亡くなったが、その名はピアノに携わる人々の間で今も語り継がれているそうだ。
そんな著者の「音」に対する真摯な姿勢は、十一章からなる本書の全編にわたって貫かれている。人間にとって「音」とは何か。そして「音」を出すために使われるもの──すなわち「楽器」とは、どの瞬間に生まれるものなのか。著者はそれらを丹念に追った後、現代の日本に生きる私たちが、日常「楽器」と呼ぶものについてこう語る。
わが国では一般に「楽器」という語はオーケストラの演奏に用いられるものを主体としたヨーロッパの楽器を意味しており、それ以外の楽器はしばしばミンゾク楽器と呼ばれている。このミンゾクという語が"民族"であるのか"民俗"であるのか、文字で書かれていてもその用法は曖昧なことが多い。
本書を読む前の私にとっても、「楽器」とは著者の指摘どおりのイメージだった。そんな思い込みを著者はやさしく解きほぐしながら、「楽器」の起源や成り立ち、音の出し方について、写真や絵と共に世界各地の例を挙げ、丁寧に触れていく。
サウン(ミャンマーの楽器)
サリンダ(インドの楽器)
ウード(エジプトの楽器)
(c)国立音楽大学楽器学資料館
その中で、目を見張った文があった。少し長くなるがご紹介したい。
楽器の発生や歴史に関しては不明なことが多い。考古学の調査に伴って出土した一次資料、すなわち実物の楽器やその残欠と、遺跡に残る壁画や彫刻あるいは古文書などの二次資料はこれらの考究の大きな拠り所となるものであるが、いずれも問題がないとは言えない。すでに述べてきたように、人間はあらゆる機会に周辺のものから"音"を見つけ出し、楽器にしてしまうという、素晴らしい能力を持っていたので、過去に作られた楽器の種類と数は膨大なものであるに違いないのであるが、考古学的資料がわれわれに示してくれるものは、きわめてわずかな例外を除いてその一部に過ぎない。地中の湿度によって石、土、金属以外のものはほとんど腐敗してしまい、残らないのである。
小さいころ、葉っぱで笛を作ったり木を叩いたりして音を出し、遊んだ覚えがある。あれらも「楽器」だったとすれば、確かに今ではその音も形も残っておらず、再現することもできない。著者の指摘は、これまでに消えていった先人たちの音や楽器が数多くあったことを、初めて私に気づかせた。人間にとって音や楽器を残すということは、それらと共に生きた人々の歴史と文化を伝えることと一体であり、はかなくも確かな生の証でもあった。
ちなみに本書は、1989年に刊行された『世界楽器入門 好きな音 嫌いな音』(朝日選書)を改題したもの。だが30年以上前とは思えないほど、著者の筆は今に生きている。巻末には楽器索引があり、そこから気になる名前を引いてみるのも楽しい。音と人の営みに対する、著者の厳しくも温かな視線を感じながら、ぜひ読みこんでほしい。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。