自分でも驚くほどの「ど忘れ」をした経験がある。10年ほど前、職場で後輩の女性と二人で話していた時のこと。呼びかけようとしてふと気がついた。いくら考えても、目の前にいる彼女の名前が出てこない。共に働いて5年は経つし、直前まで問題なく話をしていた。どうしてわからないのかがわからない。「嘘でしょ、なんで出てこないの……!?」と内心焦りまくったものの、相手に聞くこともはばかられるうちに会話は終わってしまった。あの時の冷や汗と自分の記憶力に対する絶望感は、今でもくっきり覚えている。
だから本書のタイトルを見た時、まっさきに当時のことを思い出した。あの時の私に起きていたことはなんだったのか。そして今後ああいう経験が増えていくとするならば、どう対処したらよいのだろう。わらにもすがる思いで、ページをめくった。
著者はまず、記憶についてこう語る。
記憶というのはただの情報の集積ではありません。脳は記憶を形成し、活用するために、情報の抽出、再編集、関連付けを常に行っています。脳の中の記憶はあなた専用にカスタマイズされた唯一無二の情報源なのです。
もっといえば、私たちは、それぞれ脳の中に外界を解釈するための、記憶をもとに作られた自分だけの世界を持っているのです。
こうして作られた世界を、著者は「マインドセット」と呼ぶ。元々は心理学の用語だというが、著者は「『脳の癖』のようなイメージ」でこの語を用い、それこそが「私たちの未来を左右」すると指摘する。
その上で著者は、記憶が思い出せない時に私たちの脳内で起きていることを大まかに分類し、全6章にわたって解説していく。
(実際にはこんなふうにきれいに分けることはできず、5つのパターンの組み合わせになります)。
① そもそも記憶を作ることができなかった (→第1章)
② 情動が動かず、重要な記憶と見なされなかった(→第2章)
③ 睡眠不足で記憶が整理されなかった (→第3章)
④ 抑制が働いて記憶を引き出せなかった (→第4章)
⑤ 長い間使わなかったために、記憶が劣化した (→第5章)
この5つのパターンを踏まえた第6章は、「思い出せる脳を作るには」どうしたらよいか、というまとめになっている。各章の冒頭には内容をわかりやすくイメージするためのショートストーリーが、末尾には著者によるコラムが添えられていた。特に第3章のコラム「夢分析の脳科学的解釈」と、第6章のストーリー「目覚めた女」はおすすめ。よく夢を見ては不思議に思う私にとって、前者は脳の活動と夢との具体的な関係が理解できるものであり、後者は思いがけない展開に目を見張った。
著者は神経化学や神経薬理学を専門とする理学博士。東京工業大学大学院総合理工学研究科博士後期課程生命化学専攻を修了後、アメリカ国立衛生研究所や科学技術振興事業団「さきがけ研究21」、藤田保健衛生大学(現 藤田医科大学)などを経て、現在は名古屋大学環境医学研究所の教授を務めている。
ちなみに私が経験した「ど忘れ」については、第4章の内容で触れられていた。記憶は神経細胞ごとにではなく、神経細胞の組み合わせによるネットワーク内に保管されている。後輩の名前を必死に思い出そうとしていた時、私の脳内では一つの神経細胞から複数のネットワークに刺激が伝わり、結果として不要な細胞と他のネットワークも活性化され、記憶の混線が起きていた。さらに、こんがらがった状況を抑えるための細胞も動き始めたことで、名前の記憶を握る細胞やそれを含むネットワークまでもが抑制されてしまい、肝心な記憶がより出にくくなっていた。
喉元まで出ているのに思い出せない場合は、記憶がなくなったわけではありません。しばらく経てば、ふっと湧き上がるように記憶がよみがえります。これは思い出そうと頑張るのをやめたので、間違った神経細胞が活動をやめて、周辺の抑制性の細胞も刺激されなくなり、周辺抑制が解けたおかげです。探すのをやめたときに出てくる探し物と同じですね。
とはいえ思い出そうとした努力は無駄ではなく、後から思い出すことができるのはその努力のおかげであることも、著者はやさしく伝えてくれる。もう「先生!」とか「師匠!」と呼びたくなるレベルで気持ちを見透かされているのが心地よく、かつての冷や汗や絶望感が薄れていくようだった。
脳研究の最先端と、「記憶の謎」を同時に知ることができる本書。忘れることを恐れず、自分の未来と向き合うためのヒントをつかむために、ぜひご一読いただきたい。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。