今だからこそ、「戦前」を知ろう
本書にもふれられていますが、タモリさんが現在の状況を問われて「戦前」と答えたことがありました。やっぱりタモリは鋭いなあ。たいそう感心しました。
タモリさんの認識が正しいか誤っているか、それはわかりません。しかし、そのころの自分には、現況を「戦前である」と判断する回路がまったく備わっていませんでした。だからこそ虚を突かれる形になったのです。
多くの人が台湾有事を心配しています。この不景気に防衛費増額なんてふざけんなよ。みんなそう思っているはずなのにあまり大声になってないように感じるのは、それもやむなしとする人が多いせいかもしれません。
だけどちょっと待てよ。俺たちは軽々しく「戦前」というけれど、じっさいの「戦前」――太平洋戦争/日中戦争の前――がどうだったかまるで知っちゃいないじゃないか。大日本帝国がどんな国だったかまるで知らないじゃないか。そこを知らなきゃ、現代日本が「戦前」になすべきことが何なのか、わかるはずないじゃないか。
かみくだいて言うならば、それが本書のもっとも大きなテーマであります。
著者自身がフィールドワークによっておさえた豊富な図版とともに明かされる大日本帝国のありさまは、意外に思えるものばかりでした。いかに自分がモノを知らなかったかを痛烈に自覚しましたし、右と呼ばれる人も左といわれる人も、きわめて浅はかな考えをもとに自説を語っていることも知りました。どいつもこいつもわかったふりで話を進めてやがる。しかも無自覚だから始末が悪い。
では、戦前とはなんだったのか。本書は、神話と国威発揚との関係を通じて、戦前の正体に迫りたいと考えている。
大日本帝国は、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家だった。明治維新は「神武(じんむ)天皇の時代に戻れ」(神武創業)がスローガンだったし、大日本帝国憲法と教育勅語の文面は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅を抜きに考えられないものだった。
本書はなにより啓蒙の書であり、今だからこそ読まれるべき本だと言えるでしょう。
森友学園はコスプレだ
いかに私たちの「戦前」が勝手なイメージによって創作されているか、ひとつ例をあげましょう。
2017年、森友学園が運営する幼稚園で施されていた教育が大きな批判を呼んだことがありました。
園児たちに教育勅語を暗唱させている。たいへんケシカランというわけです。反対に、教育勅語をすべて軍国教育の悪しき遺物だとするのはおかしい、いいところもたくさんあるんだ、という意見もありました。これはまったく新しい見解ではなく、戦後を通してずっと語られている考え方であり、「右より」の論客にとっては手垢にまみれた主張でした。
もっとも、森友学園でおこなわれていたそれは、たとえ「右より」であっても、おかしなものと思わずにはいられなかったでしょう。
教育勅語は戦前、そして戦中において、生徒が読み上げることはほとんどありませんでした。天皇陛下のお言葉(神勅)を読み上げることができるのは、校長先生だけだったのです。生徒たちは頭を垂れてそれを拝聴するのが正しい姿ですから、幼稚園児が口々に唱えるなんてとんでもない不敬です。
儀式に使用されないときは、教育勅語は「ご真影」とともに、特別な場所に保管されていました。学校が火事になったとき、わざわざ燃えさかる校舎に戻ってきて、命がけでご真影と勅語を救い出した先生もあったそうで、どれほど大切にされていたかわかります。
森友学園の幼稚園では勅語はそのへんに置かれていたそうで、いちじるしく不敬でした。それが許されるのは戦後民主主義だからです。なんだかなあと思わずにはいられませんでした。
著者はこれを「コスプレ」(二次創作)だと評しています。それっぽい衣装をまとった、まったく別のものであるということでしょう。
私たちの新しい物語を
著者は大日本帝国という国家を、「中世キャンセル史観」であるとしています。少なくともそれが語られはじめたときには、多くの人がそれをネタであると知っていたのです。ところが、やがて時代が下るにつれ、それがネタであると考えられない世代が中心になってきます。著者の表現によれば「ネタがベタになる」現象が起き、それがあの悲惨な対米戦争につながっていったのです。
このような物語を否定するのはたやすい。神武創業の実態は西洋化だったし、日本人が昔から特別に忠孝を大事にしていたわけでもない。(中略)
だけれども、このような物語がなぜ近代以降、急速に整備されたのかも同時に考えなければならない。いうまでもなく、欧米列強の侵略に対抗して、急速な近代化・国民化を成し遂げるためである。その試みはあまたの苦難をともないながらも成功し、日本は日清戦争や日露戦争に勝ち抜き、欧米列強に伍するようになった。
たしかに日本は、昭和戦前期にやる必要もない中国との全面戦争にはまり込み、もがき苦しんだ挙げ句、ついに対米英開戦のやむなきにいたり、破滅的な終幕を迎えた。とはいえ、そのことをもって近代化の試みがすべて否定されるわけでもない。
今必要なのは物語なのだ。それは戦前につくられたものとは異なり、戦後民主主義に準拠するものでも、たぶんない。どういう形が望ましいのだろう?
国民国家は近代に成り立ったものであり、虚構にすぎないといえばそうだろう。だが、現在の国際秩序はその虚構をベースに動いているのであって、これを否定したところで無政府状態のカオスを招来するにすぎない。(中略)
戦後民主主義の永続・発展を望むにせよ、二一世紀にふさわしい新しい国家像を描くにせよ、自分たちの立場を補強する物語を創出して、普及を図るしか道はない。
国家とは物語を基盤として成り立つものであり、戦前におけるそれは日本神話でした。今、私たちはどのような物語をつむいでいくべきなのでしょうか。著者は戦前の物語が中途半端な形で幾度となく立ち現れてくるのは、これができていないからだと語っています。
未来のために、しっかり勉強しよう。本書は、そんな気持ちにさせてくれる書物であります。
著者のステイトメントは、こちらでもふれることができます。内容も意外性にあふれ面白く、いくつかは本書に記載されたエピソードを補完するものになっています。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/