昭和は遠くなりにけり――。平成が幕を下ろし、昭和が“同時代”でなくなっていく、まさにこのタイミングで本書を読むことができたことに感謝したい。
本書は2018年夏に刊行されて話題となった新書ベストセラー『昭和の怪物 七つの謎』に続くシリーズ2冊目。著者は在野の歴史研究家として“昭和史”にこだわり、多くのノンフィクション作品を著してきた“昭和史の第一人者”保阪正康氏だ。自らのライフワークについて、本書の中でこう語る。
私が昭和史を語り継ごうと決めたのは、昭和四十年代の後半である。三十代に入ってまもなくの頃だった。
なぜそのような決意をしたかといえば、昭和という時代は100年、200年といった単位で見ると、必ず歴史上の検証対象になるだろうと考えたからだ。私たちの学生時代には史学科の学生は大体、明治維新に強い関心を持っていたのだが、ある年代を過ぎると「昭和」は必ず研究対象になると私は信じたのである。その時に「昭和の日本は中国に侵攻した」とか「日本は無謀な侵略戦争を遂行した」といった意見や総括だけを次代に伝えるだけでは無責任ではないか、と。
だからこそ著者は、昭和の各事件に関わった存命者の証言や手記を残した兵士たちの記録をありのままに伝えることにこだわった。これまで40余年にわたり、戦前・戦後の元軍人やその関係者など4000人以上の人たちに取材を重ね、彼らの口から自らの昭和史を語ってもらったのだという。
本書で取り上げる「昭和の怪物」は、三島由紀夫、近衛文麿、橘孝三郎、野村吉三郎、田中角栄、伊藤昌哉、後藤田正晴の7人。各人物と関わりの深い部下や秘書、門弟、親族への取材をもとに各人一章、全七章仕立てで描いていく。
前著に登場する如何にも怪物然とした6人(東條英機、石原莞爾、犬養毅、渡辺和子、瀬尾龍三、吉田茂)と比べてみると渋い人選のようにも見えるが、著者が長い時間をかけて付き合い、直に得た生身の証言がふんだんに盛り込まれているという点で、前著をも凌ぐエピソードの「濃さ」に驚かされる。
各人の戦争体験を踏まえ、「戦争の傷跡」をいかに受けとめ、乗り越えようとしたのか、周囲を取り巻く人間模様はどうだったのか、史実そのものよりむしろ“歴史に向きあう各人の態度”をこそ濃密に描き出そうとする。本書あとがきに、そもそも本シリーズは「歴史書として現すのではなく、人間学という枠内での書として」着想したとある。正・続の2冊を読んだ本稿筆者には、その醍醐味は正よりも続にこそ結実しているとさえ思えた。
なかでも橘孝三郎(2章)、伊藤昌哉(6章)、後藤田正晴(7章)についての洞察はまさに“人間学”そのものだ。取材申し込みの経緯や具体的な質問のやり取りなどが細部まで描き込まれることで、“歴史に向き合う各人の態度”が浮かび上がってくる。
本書前半のキーマンとなっている橘孝三郎(著者ならではの着眼により同章は、1章の三島由紀夫と相関)は、大正期の人道主義者であり、昭和初期の国家改造を企図した農本主義者であり、戦後は右翼陣営の指導者としても知られた人物だ。著者は、彼が創設した愛郷会(愛郷塾)の門弟たちが五・一五事件に連座(首相官邸ではなく東京変電所を襲撃)した、という史実に注目。本人に直接取材を試みる。人道主義者あるいは理想主義者がなぜ昭和初期のファシズム台頭の幕開けとなったこの事件に加担したのか? どうして人道主義的手法をとらなかったのか? という疑問をぶつける著者に橘はこう返す。
君の質問は、このご時世に立脚している。つまり戦後民主主義的にすぎるのだ。むろん私も会うといった以上、そうした質問には答えよう。だが昭和の国家主義運動を理解しようとするならば、もっと幅広い見方で質問を続けてほしい。
著者には「射すくめるような」眼差しで注文をつける橘の真意が初めは分からなかった。それでも次第に「唯物史観で歴史を見るな」という意味だと理解するようになっていく。その後も訪問の度に、ベルクソンを読んで質問しろ、デカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエル)の中で何を読んだか? など、橘の苦言はなおも続いたが、そうした注文にも応え、しぶとく食い下がる保阪氏。ある時、「なぜ変電所を襲撃したのか」という核心に触れる質問をぶつける著者に、橘は意外にもあっさりと答えた。
電気を消すのだ。東京の電気を消すことで、一晩東京市民にじっくりと考えてもらう。農村の農民たちはいかに疲弊の中に置かれているのか、そのあたりのことを考えてもらうためだ。
なんと純朴な願いだろう。当時共産党が掲げていたような「農業恐慌を『地主対小作』の対立図式で見て、その間の闘争によって解決しようとする理論」などとも違う、「都市対農村」の図式を土台に据え、あくまでも農本という源流に立ち返ろうという意見表明である。橘からこの計画を最初に聞いたとき、門弟たちは一様に胸をあつくしたにちがいない。
しかしそんな想像も橘の肉声に触れたからこそのものだ。変電所襲撃による「帝都暗黒」計画と聞くだけなら、現代の感覚では「すわテロリスト襲撃」となる。そこに「東京の電気を消して、わしら農民の置かれている状態を考えさせよう」という彼らの願いは聴こえてこない。本書に描かれる「昭和の怪物」と著者との対話に惹きつけられるのは、「同時代の感覚」が遠退きつつある私たちに、昭和史の一場面への想像力を呼び起こしてくれるからだ。
本章以外でも著者のスタンスは変わらない。「一面的な史実」と「一面的な人物像」に対して、本人や関係者の証言・手記を材料に、しぶとく切り込んでいく。戦後民主主義の信奉者にとっては“危険思想と紙一重”の三島由紀夫にも、日米開戦を迫る東條を抑えられずに自ら内閣を投げ出した“腰抜け”近衛文麿にも、断交通告なしの“騙し討ち(真珠湾攻撃)の張本人”野村吉三郎にも、“戦後金権政治の権化”田中角栄にも、“角栄嫌い”の伊藤昌哉にも、“警察官僚出のタカ派にして田中金権政治の片棒担ぎ”の後藤田正晴にも、である。
本書後半のキーマンである伊藤昌哉が、「昭和の怪物」に切り込んでいくその姿勢を評し、著者本人に面と向かってこんな風に語るシーンがある。
君と僕のような関係は逆縁というんだよ。(略)
人と人が親しくなる、あるいは打ちとけて話ができるようになるには、順縁と逆縁のふたつのうちのいずれかを辿(たど)るんだ。順縁というのは、最初からウマが合うという関係だね、まあこういう例はあまり多くはない。大体は逆縁という形をとる。初めは衝突をくり返すんだな。しかしそのくり返しの中で、自由に会話ができる関係ができあがっていく。君と僕はそういう関係だ。君はよく私にタテついたよ……。
本書の面白さは、“順縁”から発した関心ではなく、まさに“逆縁”の関心によって掘り下げていく著者のしぶとさに由来する。ときには面と向かって真っ向から相手の態度を質し合う。そんな「怪物」と保阪氏のやり取りに、歴史を自分のものとして教訓化するためのヒントが詰まっている。
レビュアー
出版社勤務ののち、現在フリー編集者。学生時代に古書店でアルバイトして以来、本屋めぐりがやめられない。夢は本屋のおやじさん。