長きにわたって昭和史を追い続け、これまで直接取材をした人数は延べ4000人。そのなかには東條英機の妻や石原莞爾の秘書なども含まれる。平成も終わろうとしている今、貴重な証言の数々からひもとかれる昭和史の知られざる一面とは──。7月に刊行された保阪正康氏の著書『昭和の怪物 七つの謎』(現代新書)が、世代を超えて大きな反響を呼んでいる。この本の編集に携わった中村、小林とともに、ヒットの裏側、取材秘話などをふり返った。
彼らの人柄、いい加減さも凄さもひもとく昭和史
小林 『昭和の怪物』の発売から2ヵ月、すでに15万部に達しています。この反響をご自身ではどう分析されますか。
保阪 生意気なことをいえば、講談社現代新書のマーケットに僕の昭和史がマッチングしているんじゃないかな、と思います。本では東條英機や石原莞爾、犬養毅、瀬島龍三、吉田茂らを取り上げましたが、彼らのことをみんな何となくは知っているんだけれど、本当の顔はあまり知らない。それが、全部とは言わないけれど、「こんな人だったのか」とか、「こんな問題があったのか」「こんないい加減なのか」とか、あるいは「こういうところが凄いのか」というのが、この本を読むとわかると思うんです。
小林 そうですね。私は20代後半ですが、僕らの世代からすると、彼らは教科書のなかの人です。もちろん知識として、東條英機は戦争の責任者だといったことは知っていますけれど、その実像は教科書から想像するしかない。この本のように具体的なエピソードが出てくると、歴史の解像度が一気に上がるような感覚を覚えます。
中村 この本の登場人物は、歴史の教科書でいえば太字で書かれるような人たちばかりですよね。一つひとつのエピソードは、知っているものもあるかもしれない。でも、保阪さんは東條の奥さんや秘書官にも会って取材をされていて、そうしたいろんな人の証言から一人の人物の人間像を浮かび上がらせています。その取材の厚みというのでしょうか、登場人物に血が流れていますよね。それが、これまでと違った昭和史研究として読ませるものがあるのだと思います。
保阪 同じ昭和史でも、学者は学者のプライドもあるし、読まれるために書くわけじゃない。ジャーナリズムとは違う世界で書くんですよね。一橋大の吉田裕さんは学者ですが、実証的にいろんなところへ行って調べて書いていて、彼と対談したときに、「保阪さんのように、膨大な取材をして、いろんな人の話が出てくることで、いろんなデータが集まって、我々も刺激を受けているんですよ」と言われました。他にもつきあいのある学者が本を読んで電話をかけてきて、「面白いねえ。我々が書く論文が読まれないの、わかるよ」なんて言っていましたよ(笑)。
「昭和」という時代を教訓にする意味
小林 平成最後の今年、あらためて昭和史をふり返ることは、保阪さんの中でどんな意味を持っていますか。
保阪 昭和は、革命から謀略、テロ、戦争、敗戦、占領、貧しさ、豊かさ……、人類が体験したことのすべてを、たった60年ほどの間に経験した時代なのです。その昭和史の延長線上に今がある。今の政治を考える上でも、知っておかないとわからない因果関係がかなりあると思います。昭和の検証はこれからも行われていくでしょうが、そのためのデータや、この時代の人たちはこう考えていたという記録を、僕は残していきたいと思っています。
小林 終戦からすでに70年以上経ちますが、『昭和の怪物』は、ある種ノンフィクションのリアリティをもって我々に迫ってくるものがありますね。
保阪 結局、人間って変わらないんだということですよね。どの時代にあっても、やっぱり権力者はこういうものだと思うし、それは50年、100年経っても、そんなに変わらないんだと思います。
小林 初めて知る若い読者にも、その上の世代にとっても、昭和の意外な素顔が垣間見える本となりました。
保阪 第一次世界大戦より前の戦争は、非戦闘員には関係のないものでした。限られた武器を手に、20歳に達した青年たちが、あるところで領土を取り合う。それが戦争でした。ところが第一次世界大戦では技術が飛躍的に進み、長距離砲などは20km、30km離れたところまで飛んでいく。毒ガスはばらまくし、戦車が縦横に走り回る。戦争の規模が変わったんです。だから、兵士に加えて非戦闘員が死ぬことになったんですね。第一次世界大戦は4年続きましたが、1000万人が死んだと言われています。全世界が戦争に関わり、同盟を組んでいたイギリスの参戦で、自動的に日本も参戦した。国家総力戦で兵隊が足りないから、ベルギーやフランスなどは植民地からも連れてきた。そういうアフリカの傭兵もずいぶん戦死しています。
中村 規模が大きくなるほど、悲劇も生まれやすくなっていったわけですね。
「戦争の現場」を知らない司令部たちの暴走
保阪 イギリスでのちに首相となった海軍大臣のチャーチルは、著書で戦争の形式が今までとまったく変わったことを指摘しています。「これからの戦争は二つの局面で語られるようになる」と。一つは現場で戦う兵士たち。もう一つは、軍の司令部です。言ってみればプロフェッショナルな参謀である彼らは、本部にいてストーブにあたりながら、あるいは食事をしながら、図面を見て命令をする。中央にいて現場を知らない参謀が、現地で戦う兵士に命令を下すという構図です。それが変わらない限り、これからの戦争はどんな戦争も悲劇になる。チャーチルの言う通り、あのヒトラーも、あれだけ戦闘を指揮しながら、戦場にはただの一度も行ったことがないんですよ。兵士の慰問すらしていない。映画を撮ったときに行っているのはベルリンの近くで、戦場には行っていません。
中村 保阪さんが取材された日本軍の司令部の言動を読んでいても、「戦争の現場」というのがこの人たちの頭の中にあるようには、とても思えませんものね。
保阪 当時の日本はまさに、チャーチルが懸念した通りになっていたんですね。東條も、戦地には一度も行っていない。図面を引いて、「我々はまだ戦うんだ!」と言うだけ。でもその間、日本軍は240万もの兵士が死んでいます。しかも、その7割は餓死ですからね。「とにかく行って戦え! 飯は現地で調達しろ!」と。戦争反対うんぬんの前に、こんな戦争はやっちゃいけないですよね。ただ、それを怒りに任せて書くんじゃなく、しっかりと事実に基づいて書くというのが、この本でやりたかったことなんです。
中村 保阪さんがこの本で書かれたことや、いろんな方から聞いた話を、ひょっとしたら若い研究者が、また別の解釈で書くかもしれない。そういった意味でも、本当に貴重な本を書いていただきました。
取材は本音を引き出す人間学
中村 保阪さんとは、私が「月刊現代」の編集長をしていた頃、当時あまり扱っていなかった現代史ものの寄稿をお願いするようになったのが最初です。その延長で現代新書『「特攻」と日本人』も書いていただきましたね。
保阪 一緒に鹿児島の知覧へ取材に行きましたね。あの辺りを歩いたのを、今でもよく覚えています。あんなに静かなところから特攻が飛び立ったんだというのは、やっぱり実際に見ないとわからないですよね。あの場所に立ってみると、特攻の悲しさや、この風景の中を彼らが飛び立っていった気持ちなどが、なんとなくわかる。実際に足を運ぶことはやはり大事なんです。
小林 保阪さんは、「取材は人間学だ」というふうにおっしゃいます。その本音を引き出すための取材術は、保阪さんが何十年もされている経験の蓄積で確立した技みたいなものですよね。保阪さんなりのテクニックで引き出した情報って、山ほどあるんじゃないですか。いち読者としても、尊敬の念に堪えません。
保阪 「月刊現代」では昭和50年から53年くらいまで、ほぼ毎号書いていましたが、取材の仕方はあの頃学んだことも大きいですよ。僕はいつも、取材は手紙で申し込みます。「私は昭和史を研究している者ですが、あなたの話をぜひ聞きたい」と。手紙を書くと、じゃあ訪ねてきなさいとか、一度電話をよこしなさいと返事がある。そういう人間関係のプリミティブなところから始めるんですね。僕には何も看板がないので、すべてはその手紙から始まるんです。人間と人間の関係の、いろはのいから始まるんですよ。だから本音を言う。講談社です、NHKです、と言うと、その看板を見ながら話すでしょう。それがなかったから良かったというのもあると思うんです。
小林 保阪さんは延べ4000人もの方に取材されていますが、そのほとんどはもう亡くなられているんじゃないですか。若い人が研究しようとしても、同じ取材はできませんよね。
保阪 そうですね。過去に会った人たちのすべての名刺は、しっかり整理して残しています。わからないことがあると、陸軍のことはこの人、海軍のことはこの人、内務省のことはこの人って、電話一本で聞ける人が少なくとも20人はいました。たとえば大井篤さんという海軍の有名な方は、当時彼が80代で、僕が50代のときに知り合いました。彼は「君、僕に質問があるなら、いきなり朝8時に電話してきてもいい」と言うんです。「僕には時間がないから、余計な挨拶とか、気候の話とか、そんなことは一切言うな。すぐに疑問点をずばずば聞いてくれ」と。
中村 すごいですね。そういう関係を築かれたからこそできた取材も多かったでしょう。
保阪 陸軍の中佐で起案をやっていた石井秋穂さんは、僕がずっと出入りしていたから、死が近づいていたときに「枕辺に彼を呼べ」と言ってくれました。僕は行けなかったんだけれど、そんな話も。結局は人間と人間だから。でも、歴史的に書くときは、批判は批判として書く。「よくそういうことが平気でできるね」と言われるけれど、「別に俺、あの人から金もらって宣伝やってるんじゃないから」と(笑)。それに、それを承知で彼らは話します。批判は批判でいいでしょうかと言って、「それはしょうがない。そういうものだろう」と言う人は、だいたいバランスがとれている人ですね。瀬島氏なんかには、ちょっと批判的に書きたいって言うと、「批判的って、初めからそういう予断を持ったら困るよ」なんて言われたりもしたけれど……。
保阪氏の言葉に動揺した瀬島龍三は……
中村 本の中でも、瀬島氏とのやりとりが明かされていましたね。
保阪 瀬島氏はね、「こいつはここまで知っているな。これ以上は知らないな」と、相手が知っているレベルを測って答えるんですよ。たとえば昭和16年12月2日に戦争をやると決めて、天皇のところに軍が報告に行くんですが、彼はそのとき30代半ばで、参謀本部の末端の人間でした。でも彼は、こういう言い方をするんです。「あの日は、車に乗って宮内庁へ行ったら、ちょうど雪が降っていて。こんな日に陛下に開戦をお伝えするのか、つらいなぁと思ったよ」と。知らない人が聞いたら、瀬島氏が天皇に会ったみたいでしょう。だけど僕は、彼が参謀総長の鞄持ちで行ったのを知っている。彼は控え室で待っていたんですよ。だから「瀬島さん、天皇に報告したのは杉山参謀総長でしょう」と言う。彼は僕が知っているとわかると、「そうだよ。僕も随行で行ったんだ」と。雪を見て感慨に耽ったというのは間違いじゃないから。でも知らない人が「すごいですね。そうやって陛下に伝えたんですか」と言ったら、「うん、まあそうだな。あのときはつらかったな」と、彼は言ったでしょうね。実際にそれを真に受けて、ひどい記事を書く人がいました。
小林 知らないと、それが見抜けないわけですね。
保阪 そう。だから、それは瀬島氏が悪いわけじゃないと思うけどね。僕が東條の奥さんを取材していたのは30代半ば、瀬島氏を取材したのは40代の終わり頃でした。今だったら受け流したようなことも、当時は腹が立ってね(笑)。彼が言うことに偽りがあると、思わず「瀬島さん、それは違うじゃないですか!」と、くってかかりました。すると彼は、「君、それは主観の相違だよ」と。「いや、客観的な尺度で言えば違うと思います!」「それは君の考えだろう」なんていうやりとりも、よくありました。
中村 でもきっと、30代40代だったから聞けたことも、たくさんあったのでしょうね。それが今になって、すごく生きている。こうして私たちに伝わってくる話を聞き出していらっしゃるわけですから。
保阪 あるとき、瀬島氏を取材した後で、彼にカレーライスを食べて行けと言われて、何人かでテーブルを囲んだことがあるんだけれどね。何気なく、「瀬島さんはシベリアに抑留されていたときに『赤いナポレオン』と言われていたんですよね?」と聞いたんです。彼が共産主義にちょっとかぶれたという意味でね。そうしたら、「なんでそんなこと知っているんだ?」と。僕が「いろんな人に取材したんです。本当にそうなんですか?」と言ったら、瀬島さんの手が震えたんですよ。その後またあることを聞いたら、スプーンまで落とした。この人は本当に正直な人だなと思いましたね。逆に言えば、人間というのは、ずっと一生、何かを偽って生きてはいけないんだな、それはどこかで出るんだなと。取材は足を使えとよく言いますが、直接会うとこういう副次的なものがいろいろと出てくるんです。
新しい人たちが興味を持つきっかけに
小林 この本では昭和の戦争に対して、保阪さんなりの教訓みたいなものも書かれていますよね。東條の何が悪かったのか。
保阪 東條は昭和の軍人の典型なんです。昭和10年代というのは、日本の歴史の中でも軍国主義が横行し、東條に率いられた軍が誤った道を歩んだ時代。じゃあ日本はもともとそうなのかというと、決してそうじゃないと僕は思うんです。むしろ、まっとうな人はいっぱいいたんだけれど、そのまっとうな人たちが権力構造の中心に座れなかった。東條のような人が自分のイエスマンばかりそろえて、本当に能力のある人たちを全部排除してしまったからです。予備軍として辞めさせられたり、戦地にやられたり。東條には、軍で自分に逆らう人に対する脅し文句があってね。「お前、ニューギニアにやるぞ!」と言うんです。要するに、激戦地に送るぞってこと。人事異動を懲罰に使っているんだよね。ニューギニアでは何万人もの兵士が戦っているのに、彼らに失礼極まりない。まさに、チャーチルが言う「中央で戦争をしている人の典型的な錯覚」ですよ。
中村 本当にそうですね。この本の魅力は、保阪さんが書く説得力にもあります。膨大な取材に基づいているからこその迫力というか。
保阪 僕は東條を7年調べているからね。裏も表もわかって書いている。「あんた普通、7年も調べたら同情するよ。これはしょうがないなって。なんでそんなに批判するんだ」と、元軍人には言われたけれど(笑)。僕は東條が憎いとかなんとかじゃなくて、こういう人が首相になって、陸軍大臣になって、しかも兼務ですよ。最後のほうは参謀総長、内務大臣など。なんでこの男がこんなに権力を握ったのかという、そのからくりの全体がきちんと整理されていかないと、戦争の反省なんてありえないと思うんです。彼は確かに、日本型の努力型の人間ですよ。難関だった陸大に、2、3年苦労して猛勉強の末に入っている。でもそれがゆえに、彼にとっては陸大に入らなかった人は負け犬で、努力していない人となる。人間観がものすごく狭いんですね。おまけに、これも軍の典型だけれども、文学書や哲学書なんて読んだことがない。ものを相対化する力がないわけです。戦争へ行ったら、勝つまでやるというプログラムしかない。こういう人が指導者になっちゃいけないんだということを、我々は共通の認識で持たなきゃいけないと思います。
小林 この本には、アカデミズムとはまた違ったところの、ジャーナリスト、ノンフィクション作家としての保阪史観みたいなものがあります。シビリアンコントロールがいかに大事かということも、こうした歴史のもとで説得力を持って語られると、読者も腑に落ちるところがあったのではないでしょうか。
保阪 この間、「今までどう読めばいいかわからなかったけど、今回の本を読んで石原莞爾の評伝の読み方がわかった。これからはもっと読んでみようと思う」と、ある編集者に言われました。この本では、そういう新しい人たちに「当時の伝記も読んでやろうじゃないか」と興味を持ってもらい、この世界へ引っ張ってくる役割が果たせればいいなと思っています。
1939年北海道生まれ。現代史研究家、ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。1972年『死なう団事件』で作家デビュー。2004年個人誌『昭和史講座』の刊行により菊池寛賞受賞。2017年『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞を受賞。近現代史の実証的研究を続け、これまで延べ4000人から証言を得ている。『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『昭和史の大河を往く』シリーズなど著書多数。