2018年3月、滋賀県の野洲川河川敷で、切断された女性の胴体部分が発見された。同年6月、警察は死体遺棄の容疑者として、現場近くに住む31歳の女性を逮捕。その女性は、被害者と長年同居していた娘であった……。
本書は、世間でも話題となったこの衝撃的事件の詳細なルポルタージュである。著者の齊藤彩は、事件を起こした女性・髙崎あかり(仮名)が公判中で大阪拘置所にいるときから接見を続け、身柄が刑務所に移されてからも彼女と文通を重ねた。
その根気強い取材に加え、異常な状況や感情的衝突もつとめて冷静に描出する筆致、予断に流されない注意深さは、元司法担当記者という経歴がなせる技だろう。母娘がそれぞれに生きた各時代の社会情勢までさかのぼり、事件の根幹を捉えようとする調査力も本書に奥行きを与えている。
本書はいわゆる実録犯罪ルポというジャンルに当てはまるものかもしれないが、事件の猟奇性に焦点を当てた作品でも、警察側の視点で捜査過程をつぶさに追う作品でもない。もちろん、そういった部分も疎(おろそ)かにはしていない。娘が「特殊な工夫」を施した凶器で母親を殺害し、その遺体を自宅の風呂場で解体するようすは夢に見るほど克明に描写され、犯行前に繰り返し観ていたという映画のタイトルまで登場する(映画ファンなら「ああ」と納得するタイトルではあるが、その直接的影響を得々と論じるような浅はかな分析はしていない)。
著者が正面から見据えるのは「なぜこのような犯行が起こるに至ったのか」という、事件の核そのものだ。語られるべきは、母と娘が歩んできた時間。そこから一切、ブレることはない。
そこには長年にわたる愛情という名の束縛、支配と抑圧があった。娘を進学校に入れ、厳格な英才教育に己の人生を懸けた母親に、我が子の将来を思う親心や愛情がなかったわけではないだろう。しかし、少しでも理想にそぐわない結果や行動を示せば、幼いこどもにも容赦なく暴力的制裁を加え、猛省と服従を強いた。
母親のメールやLINEでの会話に残る常軌を逸した叱責・悪罵、それに対する娘の「死んだ目でやりすごす」ような反応は、読者の心臓もギリギリと捩じ上げる。医大合格を目指した9年間もの浪人時代を含め、母娘の窮屈で病的な共同生活は、易々とは共感できないほどに長大で重い。
母親が繰り返した虐待、それに対して娘が起こした最後の抵抗は、かなり極端なものとはいえる。だが、彼女たちと我々に大きな違いはない。相互理解のボタンを掛け違ったまま取り返しがつかないほど腐敗していく家庭環境は、どこにでも発生しうる。読者が最も恐怖を覚えるとしたら、事件そのものより、その「他人事でなさ」ではないか。
この本は著者による取材記事がもとになっているが、その記事がWEB配信されると、驚くほど大きな反響があったという。しかも、犯人である女性に対して同情的な反応が多かったそうだ。程度こそ違え、いかに多くの人が家族間の確執に悩み、苦しんでいるかということだろう。そういう意味では、本書は「家族を持つすべての人間必読の書」といっても過言ではない。著者もその意図を冒頭で明らかにしている。
この本を出したいと考えた、あかりと私の思いは一致している。起こしてしまった事件の罪を今後、生涯かけて償うと同時に、父、母、娘、息子、家族との関係に悩むすべての人に、この本を届けたいと思っている。
なぜ母親は自分の娘をそこまで追い詰めたのか? どうして人間はここまで残酷になれるのか? 人がたやすく支配にからめとられ、脱出するチャンスを失ってしまうのはなぜなのか?
本書に単純な「解答」はない。ただ、読み進めるうちに次々と湧き出てくる疑問に、その都度、具体的事実をもって応えていく構成は、読者にとても親切だ。自分がこういった状況や心理に陥らないために(あるいは陥ってしまったときに)どう対処するべきか、そのヒントは確実にもらえるはずである。実行できるかどうかは、その人次第だが。
本書では、受刑者・あかり(仮名)自身の文章が何度も引用される。落ち着いた聡明さと文才を感じさせる筆致で、だからこそギャップと悲しみがある。こんな悲劇を迎えるべきではなかったと思える、将来性のある若者の文章だからだ。実質的に共著と言ってもいいほど、その文体は本書のインパクトと直結している。
犯行直後、Twitterに「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と投稿した彼女は、逮捕後も死体損壊・遺棄の犯行は認めながら、殺人だけは頑なに否認し続けた。しかし、控訴審では一転、その罪を告白する。その劇的な展開はまさに本書のクライマックスであり、これが残忍な殺人事件を主題とした本ではなく、何より「家族のあり方」を問う本であることに思い至らせてくれる。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。