物価高騰の理由はなにか
スーパーなどに買い物に行くと、食材が一様に値上がりしています。電気代ガス代ガソリン代など、エネルギー価格の高騰が伝えられて久しく経ちます。モノの値段が上がったぶん給金が上昇したなら釣り合いがとれるのですが、そんなこともありません。ただ、ひたすら苦しくなっています。
どうしてこんなことになったのか。テレビなどのメディアではこれをロシアのウクライナ侵攻によるものとしていますが、その影響はあったとしてもメインではありません。なぜなら、物価高騰は紛争の前から始まっていたからです。では、主要因はなんなのでしょうか?
本書はこれを解き明かすところから始まります。
ウクライナ戦争以前の重大事件は、新型コロナウイルスによるパンデミック以外にあり得ません。インフレの主要因はおそらくこれなのですが、従来の経済学はこれを説明することができませんでした。
パンデミックの1年目である2020年は、恐怖心による人々の行動変容が生じ、対面型サービスへの需要が落ち込んだ結果、各国でGDPが低下しました。そのため、専門家の多くは、「パンデミックはインフレ率を引き下げる効果をもつ」と考えるようになりました。これは長年のデフレに苦しんでいた日本だけではなく、米国でも同じようにとらえられていました。
パンデミックは景気を低迷させ、価格を下げる方向に働くはずなのです。しかしそうはなっていません。なにかこれまでの常識では計りがたいことが起きているのです。それはいったいなんだろう?
経済を説く本は退屈なものになりがちです。昼下がりの授業にも似て、眠気を催すようなものになることがとても多くなっています。すでにできあがった理論を説明するのですから、致し方ないことかもしれません。
ところが、本書は経済学の本であるにもかかわらず、とてもスリリングです。タイトルに「謎」とあるとおり、本書の主軸は謎解きになっており、ミステリー小説のようなワクワクを提供してくれます。
パンデミックは社会を変えた
ものすごく雑に、簡略に経済のキホンを概説します。
モノの価格は、需要と供給のバランスで決まります。価格が上昇するとすれば、需要に供給が追いつかないためです。反対に供給過多になれば、価格は下がります。
現在、世界は「ウィズコロナ」で動いています。ウィズコロナとは「もう感染者が出るのはしかたがない、通常営業でやっていこうよ」という考え方です。欧米ではマスクをする人は少なくなりましたし、コンサートやスポーツ大会の会場などでも、観客はふつうに「密」になり、声を出し唾を吐き散らして声援しています。感染対策は基本的に「ない」状態です。
会社も工場も動き始めました。労働者が戻れば生産が再開しますから、供給不足になることはないように思えます。
人類はこれまで多くの自然災害や戦争を経験し、それらは経済にも大きな爪痕を残しました。なかでも、日本人にもっともなじみのある自然災害は地震です。地震は工場やオフィスなどを壊してしまいます。つまり、資本の棄損です。また、地震は多くの人命を奪うので、労働も棄損します。資本と労働が一瞬で消えてしまうので、それまでと同じように生産を続けることは到底できません。資本の修復にはたくさんの時間とおカネがかかります。労働の修復にはさらに長い年月を要します。そのため地震の直後に経済活動が元に戻るとは、誰も考えません。
パンデミックは災害でも戦争でもありません。生産基盤――たとえば工場の機械などは、まったく毀損(きそん)されていないのです。さらに、不謹慎の批判を受けることを恐れずに言うならば、労働人口もさほど変わっていません。すなわち、真にウィズコロナで動き出したならば、供給不足は即座に解消されなければおかしいのです。事実、大方の経済学者の見立てはそうなっていました。
労働者の変化とグローバル化の終焉
ところが、そうはなりませんでした。パンデミックが社会を、さらには人々の意識を変えてしまったからだ。著者はそう語ります。
パンデミックは労働者そして消費者の意識を大きく変えました。結論から言えば、これが供給を大きく減らすことにつながり、インフレの主要因となりました。本書はこれを、「行動変容」という言葉で説明しています。
さらに、このインフレは単に物価高騰を表しているにとどまりません。社会構造の変化をも表しているのです。
振り返れば、パンデミック以前は「密」になることのメリットを世界規模で追求する社会でした。経済における「グローバリゼーション」という現象はその典型です。米国のスマートフォンメーカーと中国の組み立て工場とが、1万キロという遠い距離を隔てて協力関係をもつことに、私たちは何ら疑問を抱いていませんでした。生産効率を上げるために、ITと物流の技術を駆使して距離を克服し、「密」になってやっていこうという取り組みこそが、グローバリゼーションの核心でした。
グローバリゼーションは、徹底的にコストパフォーマンスを追求しよう、そのためであれば世界のどこにでも進出しようという考え方に根差すものでした。これに対して「脱グローバル化」の背後にあるのは、供給網の安全性と安定性を重視し、そのためにコストパフォーマンスが多少犠牲になってもやむを得ないという発想です。必然的にグローバル企業の製造コストは上昇し、製品価格は上昇します。脱グローバル化は、長期的かつ静かに進行する供給ショックなのです。
最近(2022年11月)、Twitter社を買収し新CEOとなったイーロン・マスク氏は、従業員のリモート勤務を禁止したといいます。商売には「密」が必要だとの考えに基づいていると言ってもいいかもしれません。
著者は、インフレはいずれおさまるだろうと予測しています。自分の浅薄な理解でも(やまない雨はないのと同じ理由で)そうだろうと思っています。ただし、そのときには社会構造は大きく変わっているに相違ありません。そして、本書は断じてこれを楽観的に見てはいません。
世界を襲うインフレのからくりを語りつつ、本書は現在の世界のすがた、つまりアフターコロナの世界のすがたを伝えてくれています。
本書に対する著者のステイトメントはここで(https://news.kodansha.co.jp/9464 )接することができます。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/