物価変動のメカニズムをわかりやすく解説し、選書としては異例のヒットとなった『物価とは何か』。その著者である渡辺努氏が、このたび「世界インフレ」をテーマに緊急出版するのが本書だ。前作のエッセンスをさらにわかりやすく説き、いま世界中が直面している経済問題を解き明かそうとする試みが、また大きな反響を呼びそうだ。
「インフレの謎」の核心に、担当編集の青山遊が迫る。
インフレの原因は戦争ではなく実はパンデミックである
青山 今回の『世界インフレの謎』では、いま世界で加速しているインフレの原因はロシアとウクライナの戦争ではないとはっきり明言されていますね。
渡辺 日本の報道では、どういうわけか「とにかく戦争の影響であらゆる物価が上がっている」というロジックが主流です。多くの人がそれを信じていますが、戦争が始まったのは今年の月。しかしインフレ自体は、グローバルには去年の春頃から始まっている。明らかに、そこには時間のズレがあるわけです。戦争によってインフレが加速したのは事実ですが、いま海外で起きているインフレの元々の要因は戦争ではなく、新型コロナウイルスのパンデミックからきているということを書きました。
青山 素人には、「パンデミックでインフレ」というのはイメージしがたいところがあります。
渡辺 パンデミック自体は抑えられて、そろそろ終わりつつある。経済活動への影響も、日本ではまだ少し残っていますが、海外ではほとんどないに等しく見えます。そんな中で、なんでパンデミックの影響が出てくるんだ、というね。
青山 そこが“謎”ですよね。
渡辺 パンデミックには、ある種の後遺症があるのだろうと私たちは考えています。後遺症は時間をおいても出てくるし、これから完全にパンデミックが終わっても続く可能性がある。その後遺症が、「行動変容」なんです。
青山 「行動変容」は本書のキーワードになっていますが、具体的に教えてください。
渡辺 一つには、私たちは労働者ですけれども、工場やオフィスに出かけていって働くということがかなり減りました。在宅勤務に慣れてきた中で、もうオフィスに戻りたくないと考えている方が多い。アメリカでもヨーロッパでも非常に色濃く残っていますが、今後も残るだろうと。もう一つは、私たち消費者の問題です。その消費の仕方もパンデミックの期間に大きく変化して、それがなかなか元に戻らない。ひと言で言えば、サービスを買う消費ではなく物を買う形での消費に切り替わって、それが元に戻っていない。サービスより物のほうに需要が集中してしまっています。そうすると、物の価格が上がる。そこからインフレが起こるのです。
日本はまだインフレじゃない? 4割の品目は値上がりしていない
『世界インフレの謎』、著者の渡辺 努氏
渡辺 新型コロナウイルスが怖いので、それを避けるために少しだけ自分の行動をアジャストする。それは少しなんだけれども、みんなが同じ「少し」をやるので、結果的にものすごく大きなムーブメントになってしまって、社会経済を突然悪くしたり、良くしたりという大きな振り幅を生んでいるんだということを、この本で伝えられたらと思っています。
青山 本書では「日本はまだ本格的なインフレにはなっていない」と述べておられますが、食料品や電気代が高騰していて、困っているという声は日増しに高まっていますよね?
渡辺 肌感覚として多くの方がそう感じているのは事実ですし、実際にデータを見ても上がっています。ただ、もう一つの事実として、190ヵ国の中で日本のインフレ率は最下位なんです。食品やエネルギー関連が上がっている一方で、理髪料金、JRの料金などのサービスは、1年前と比べても全然価格が動いていません。実は全体の品目の4割は価格が動いていない(※注)。海外と同じようなインフレが起きているとは、とても言えないんです。
青山 前作の『物価とは何か』もそうですが、先生の本の魅力は、単に世界経済をわかりやすく解説しているだけに留まらず、社会現象や人間そのものの根源を鋭く解き明かしている点にありますよね。経済学で、こんなに面白い本はなかなかないですよ。
渡辺 経済学の論文や教科書なんて、読んで面白いものではないですよ。それは書いているほうだって面白くないわけで(笑)。
世界経済に取り残されている日本人に足りない意識とは
(右)『世界インフレの謎』、著者の渡辺 努氏。(左)担当編集者の青山。
青山 本書を読んでハッとするのが、世界各国の賃金はどんどん上がっているのに、自分たちの給料が毎年上がっていくという感覚はまったくないことです。ガラパゴス化というか、それに慣れてしまって期待もしていない。
渡辺 外と完全に遮断されていれば、それでも問題ないわけですよ。賃金も動かないけれど、価格も動かない。でも、海外から何か物を買わなきゃいけない、労働者を雇わなきゃいけないという局面になってくると、海外との開きが見えてくる。そこでいろいろな不都合が出てくるのです。
青山 この本を担当させていただいて改めて思うことですが、僕らは消費者でもあるけれど、労働者でもある。デフレで値段が上がらないのがうれしい、というのは消費者の感覚です。労働者として賃金が上がらないというのは、どれだけがんばってもそれが反映されないということですから、それは不健全だと気づかなければいけないんですよね。
渡辺 インフレというのは物価が上がることで、それ自体は良いも悪いもありません。ただ、賃金と同時に価格も上がるかどうかが問題なのです。毎年2〜5%程度、賃金も価格も安定的に上がり続けるのならば、いたって健全な状態です。
いまのヨーロッパのように、労働組合の要求で賃金が上がるとその分コストが上がって、企業が価格を上げる、そこでさらに消費者がもっと賃金を上げろと言う。そんなふうにスパイラル的にどんどん上がって、インフレ率が10%近くにもなってしまうのは大問題です。ただ、いまの日本がただちにそうなることはまずあり得ないので、まずは安定的に上げていくことを目指せばいい。
青山 日本人はなぜこんなマインドになったのでしょう。
渡辺 これは研究者が扱う範囲を超えるかもしれませんが、日本は経済大国として一時期は2位(名目GDP)までいき、今も3位。そこまでいった大きな理由は、協調性があるからだと思うんです。総理がこっちの方向だと言えば、みんながそっちに向かってしっかりがんばる。それが60年代の高度成長を支えました。アメリカにもヨーロッパにもない、日本人特有のものです。その協調性がいま、物価も賃金も動かさない方向に機能してしまっている。企業は「賃上げは勘弁してくれ」、労働者は「それなら値上げはやめてくれ」と。そのマインドを脱却して緩やかなインフレを実現させるには、政府による強力な旗振りが必要です。
青山 まずは「僕らの給料を上げてくれ」と社長に直談判しなきゃいけませんね。この本の価格も、1000円ではなく3000円くらいにするべきだったのかも(笑)。
※注=2022年9月時点でのデータです。
1959年生まれ。東京大学経済学部卒業。日本銀行勤務、一橋大学経済研究所教授等を経て、現在、東京大学大学院経済学研究科教授。株式会社ナウキャスト創業者・技術顧問。ハーバード大学Ph.D。専攻は、マクロ経済学、国際金融、企業金融。著書に『市場の予想と経済政策の有効性』(東洋経済新報社)、『物価とは何か』(講談社)などがある。