丸暗記にはムリがある
電車の中で英単語帳とにらめっこする制服姿の女の子や、TOEICの試験前なのか左手に英単語帳、右手につり革なスーツ姿のおじさん。時間とやる気と集中力をかき集め、みんな一生懸命に英単語を覚えている。すごい。私は英単語を覚えるのが苦手だ。時間とやる気と集中力をありったけかき集めても、退屈さに負けてシオシオと蒸発してしまう。丸暗記なんてムリだ。
そんなシオシオな私でも不思議と忘れない単語は必ずエピソードと結びついている。たとえば“amnesia”という単語は、スペインのイビサ島にある有名なクラブの名前に採用されている。「健忘症」なんて名を掲げるそのクラブは、明け方に天井から大量の泡が降り注ぐ。あまりにバカバカしく楽しかったので一発で覚えた。丸暗記を不得手とする私の頭に収まるなけなしの英単語が「amnesia(健忘症)」だなんて皮肉だが。
そう、単語学習にほしいのは、エピソードだ。「ああそうだったのか」「なんてこと!」と心を動かされたら記憶に刻まれるはず。
本書は、単調で退屈な作業になりがちな英単語学習を、様々な発見を通して、自然に楽しく英単語を覚えられる画期的な本である。
『教養の語源英単語』の「はじめに」を読んで「よっしゃ」と思った。
印欧祖語という一つの言語が、地域や民族ごとに分化し、英語・ドイツ語・フランス語・スウェーデン語・ロシア語・ペルシャ語・ヒンディー語などの言語が生まれることになる。このようなことを考えると、「バベルの塔」の話を全く荒唐無稽な話として片付けることはできないと筆者は考えている。
言葉の語源をたどれば、そこには歴史がある。本書は英単語の語源を軸にヨーロッパの歴史や文化に連れ出してくれる1冊だ。語源とともに世界史の知識も身につく。そして旅行にも行きたくなる。なお、私の脳内でイビサの泡パーティーと結びついてしまった気の毒なamnesiaについても、その語源を本書で明らかにしてもらえた。
デモクラシー、独裁政治、パンデミック
「第3章 古代国家の社会制度」ではギリシャの都市国家の話をベースに英単語の語源が紹介される。たとえばdemocracy(民主主義、民主政治)はこんな感じ。
アテナイでは、紀元前6世紀に参政権を持つ市民が直接的に政治に関わる「直接民主制」の基礎が確立する。(中略)それまでの貴族政治の基盤であった血縁に基づく部族制が解体され、自然村落を基盤に、「デーモス(demos)」という行政区が設定される。アテナイを地域的に10の区(デーモス)に分け、各区から抽選により50人が評議員として選ばれ、500人評議会が設置され、民会の予備審議や行政が行われた。
まず、ここで「へええ!」となる。そして、
「デーモス(demos)」とはギリシャ語で「人々、庶民」の意味で、庶民が行う政治がdemocracy(民主主義、民主政治)だ。democratは「民主主義者」、demagogueは「dema(民衆)+agogue(指導)」から「扇動政治家」……
数珠つなぎでやって来るdemosと繋がりのある単語たち! さながら芋掘りのようだ。さらに続く。
また、cracyとは「支配」や「管理」の意味で、autocracyなら「auto(自ら、一人で)管理する」から「独裁政治」
頭にすいすい入る。楽しい。こうしてくっきり脳に刻まれたdemocracyとは別の章で再会した。「第8章 医療と健康」には、たぶん私たちがこの数年もっとも口にしたであろうあのやっかいな疫病にまつわる英単語が登場する。新型コロナウイルスだ。感染の拡大に沿って単語が紹介されていく。
endemic(エンデミック)は「一地方の民衆の中に(en)」から「一地域特有の伝染病」や「風土病」、epidemic(エピデエミック)は「地域と地域の間(epi)で流行る伝染病」、pandemic(パンデミック)は「世界中すべての(pan)地域や民衆に流行る感染爆発」で、どれもギリシャ語のdemo(民衆、地域)に由来する。(中略)「民主政治」のdemocracyと同じ語源である。
democracyよ、またお会いしましたね! こうしてさらに印象が濃くなる。
お風呂の街・バース
歴史があるということは、その歴史が刻まれた土地があるということだ。本書はヨーロッパの都市とその歴史を巡る本でもある。読んでいると旅行に行きたくなる。
ロンドンのパディントン駅から列車で西へ1時間半ほど走ると世界遺産バース(Bath)に到着する。駅名はBath Spa Stationだ。バースは紀元1世紀、この地を支配していたローマ人が建設した温泉施設と神殿がある街で、現在でもイングランド有数の観光スポットとなっている。英語のbath(入浴、浴室)は「暖める」が語源で、温泉施設があることからバース(Bath)という地名になった。
お風呂の街、行ってみたい。さらに本書の楽しいところは、著者の清水健二先生によるこんな紹介が添えられている点だ。
筆者のお勧めはハンガリーの首都ブダペスト市内にある露天温泉のセーチェーニ温泉とドナウ川沿いにある屋内温泉のゲッレールト温泉だ。どちらも外観は、まるで宮殿のような建物で、湯の温度はややぬるめだが、一日のんびりすごすことができる施設である。
学校の授業でもこんなふうに先生が教科書に載っていること以外の話をサラッとしてくれると「ん!?」となってうれしかったなあ。私が今向き合っているのは、味気ないものではないし、目の前にいる先生だっていろんな人生をたどった人間なのだと気がつくと、教室の黒板や文字でびっしりの辞書もちょっと鮮やかに見える。
やっぱり、何も考えずに暗記するのはハードだ。もったいない。そして、英単語を点で覚えるのも、大変もったいない。だって語源があるのだから、その根っこから言葉が広がっていくさまを観察したほうが楽しい。
それを証明するかのように、本書の巻末にある「索引」は、この本の中で登場する単語が何章で言及されているかのみを示す。目当ての単語のページだけをピックアップするのではなく、章をまるっと読むといいですよという清水先生からのメッセージとして私は受け取った。そして、実際にそのほうがイメージがしやすく、とても楽しい。旅するように読める言葉の本だ。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。