源頼朝って何者?
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は北条義時なのだけど、第12回まで観て一番気になるのは源頼朝だ。とにかく頼朝が目立つ(そして強烈に面白い)。そりゃあ題名には「鎌倉殿」と入っているし、鎌倉幕府をひらいたのは頼朝だから当然かもしれないが、この人はなんなんだろう?と思うのだ。どことなくノーブルで、しおしおしているかと思いきや急にムーブメントの中心に躍り出る。でもヒーローでもなさそう。そんな彼がやがて武家のトップに上り詰める理由が不思議でたまらない。しかもあの有名な美しい肖像画「伝源頼朝像」だって実は本人と全然似ていないらしい。もしかして美化されてる? そうこうしているうちに義経も登場して「ああ、最後この兄弟は対立するんだよなあ……」と今とても切ない。ドラマはドラマとして続きを楽しみに待つが、彼らの背景をもっと知りたくなった。
『源氏の血脈 武家の棟梁への道』は、頼朝の祖父・為義、父・義朝、そして頼朝と義経の歴史研究をまとめた本だ。歴代の源氏がどのような生まれで、どんな人物と血縁関係にあり、どんなことを行ったかが一本の筋としてわかる。すると鎌倉時代を飛び越え家康にまでたどり着く。
そして、年号と名前と出来事だけで日本史を覚えるとつい「貴族の政治から武家の政治へ切り替わった」といった大ざっぱなイメージに偏ってしまうが、実際はそんなあっさりとスイッチするような出来事ではなかったことが理解できた。
『平家物語』が、東国武士と西国武士、源氏と平氏、義経と異母兄範頼(のりより)といったように物事を対立的に描くことによって、面白さを増幅させる手法をとった文学作品であることが実証的に判明しているのである。(中略)
源氏が武家政権樹立に向けて進んでいった道程というのは、その貴族としての身分を上昇させていく過程にほかならず、これまでの「地方武士の輿望(よぼう)を担った」というような、下からの動きを重視した見方を相対化すべきである(以下略)
頼朝って何者? 義経は本当にあんな桃太郎みたいな少数精鋭部隊で頼朝に合流したの? 弁慶は実在したの? 彼らの実像に迫るドラマチックな1冊だった。
頼朝でなければいけなかった理由
著者の野口実先生によると本書はどの章から読んでもよいとのことだが、個人的にはぜひ「第一章 構想する為義──列島ネットワークの構築」から読んでもらいたい。京都で摂関家に仕える「京武者」だった源氏が日本各地の流通や物資調達の要となる土地を拠点としていくさまがよくわかる。本書6ページにある武門源氏略系図を見ながら、為義の息子達がどこへ行ったのかを確かめると楽しい。
続く「第二章 調停する義朝──板東の平和と平治の乱」では、頼朝の父・義朝が京都の政界で重要なポストに就き、やがてクーデターを起こし命を落とすまでが語られる。とくに「2 平治の乱における義朝」はスリリングで面白い。そして、この父の章で、頼朝がやがて武家を束ねる棟梁・征夷大将軍となる理由がさっそく示されている。
まず、それぞれの地方にいる有力武士たちはテリトリー争いをしていた。そんな彼らがなぜ源氏を受け入れたか。
特に坂東や南九州では、平忠常の乱や刀伊の入寇の際に活躍した地方軍事貴族の系譜を引く「在地系」の有力武士たちが同族間で国衙在庁ないしは荘園所職(しょしき)と一体化した総領(そうりょう)・家督権の争奪に明け暮れる状況にあった。かかる在地紛争の調停を行いうる軍事的実力と貴族性を併せ持つ京武者の下向が期待されたのである。(中略)
彼らが調停者として地方社会に君臨するためには「貴種」としての再生産をはかる必要があった。このことを踏まえると、頼朝が平治の乱中における除目で、わずか十三歳にして「右兵衛権佐」に任官した経歴を持っていたことは重要であろう。
大河ドラマで「佐どの!」と呼ばれる頼朝を思い出す。「右兵衛権佐」なんて位をもつ武士は頼朝以外にどこにもいない。将来は公卿に到達できるステイタスを誇り、さらに母親は熱田大宮司藤原季範の娘なので王朝とのパイプも太い。乳母だって自分の血縁者をフル活用して頼朝をずっと庇護する。
父・義朝にクーデターを起こされた側の平清盛が頼朝を死刑ではなく流刑にした背景も本書で述べられている。とても面白い。
こうしたあらゆる要素により、流刑されたあとも頼朝を手厚く支援する者は多かった。頼朝、いろんなカードが揃(そろ)っている。
ちなみに、流刑にもランクがあるのだという。
もともと流刑には遠流・中流(ちゅうる)・近流(こんる)の三ランクがあり、これが犯罪の重さに対応していた。この考え方は平安時代には単に物理的な問題以上に、京都を中心とする国家の浄穢(じょうえ)構造として意識されるようになる。つまり、清浄な京都を中心として、そこから遠ざかるほど穢が増加するという意味での同心円の広がりが人々の意識のなかに描かれるようになった。
頼朝が流れたのは伊豆。のちに後鳥羽上皇が流された隠岐と同じくらい京都から遠く離れた場所だ。
ドライな坂東武士たち。そして義経
「第三章 起ち上がる頼朝──軍事権門「鎌倉殿」の誕生」と「第四章 京を守る義経──院近臣の「英雄」」を読むと、私が頼朝と義経に対して抱いていた曖昧なイメージがクリアになった。まず、坂東の武士が頼朝の挙兵に従ったのはなぜなのか。第二章から第三章にかけて「圧倒的に高貴な身分」や「京都とのネットワーク」といった頼朝のアドバンテージに触れていくと、次第に源氏と武士たちの関係にちょっと打算や博打のようなものを感じるのだ。
しばしば、坂東の武士たちはもともとすべてが源氏の譜代の家人で、平家には大きな不満を持っていたので、頼朝が挙兵すると喜び勇んで味方になり、鎌倉に彼らの政権を樹立したというような説明が行われるが、それは鎌倉幕府確立後の勝者の史観に基づく歪(ゆが)められた見方である。実は十二世紀末の東国では武士の一族の間における血なまぐさい抗争が常態として存在しており、頼朝への参向と敵対はその反映として捉えた方が正確なのである。(中略)
当時の主従関係というのは、近世のようにウエットなものではなく、特別な場合を除いては契約的な関係というべきものであった。だから、かつては源氏の家人であっても、平治の乱で義朝が滅びれば、今度は平家の家人になって当然だったのである。
やっぱり! 『吾妻鏡』は北条家の視点で描かれた歴史書であり、それが武家政権の実情を伝えているとは限らないことを著者は何度も指摘する。
当時の武士社会において所領は分割相続され、家督・惣領の地位は器量(能力)次第であった。したがって、一族間の対立は世代を超えて継続し、一方が平家と関係を深めて勢力を高めれば、その対極になんとかして状況打開をはかろうと目論む者もあった。
ドライで打算的でゲームのようだ。そして、これは義経に従った武士たちにも通じる話だ。
鎌倉政権が成立すると、今度はこれに敵対した、つまり平家側に立った勢力は非常に不利な状況に置かれることになった。処刑されたり、よくても領地を没収された。義経が頼朝と対立すると、そういう勢力が義経につく動きが生じたのである。
義経に期待し、与同しそうな武士は坂東にも数多く存在したのであり、それが頼朝に義経を恐れさせる大きな背景になっていたと考えられるのである。
ということで、頼朝と対立した義経が最後は平泉へ逃げてゆく経緯と、なぜそれを藤原秀衡が受け入れたかが丁寧に語られる。さらに、頼朝の神格化の理由もこの武士達のドライさや源氏一族の内乱が大きく関わっていると著者は考える。
たとえ血を分けた弟であろうとも家人として位置づける。それを儀式などの場で視覚化する。非常に厳しい秩序を構築していく。東国の武士というのは先祖代々源氏嫡流の家人だったのだという、事実に反するイデオロギーを叩き込む。そういう形で頼朝は御家人制というものを作り上げていったのであった。
頼朝は武士の道義を生み出し、武家イデオロギーのルーツとなった。そして、そのイデオロギーはやがて家康にも受け継がれていくことが「終章 征夷大将軍と源氏の血脈」で述べられる。ここで面白いのは、家康はその思想を継承するだけではなく自身が源氏の血脈を伝える者と位置づけた点だ。これでもかと言わんばかりの権威付けに思わず笑ってしまった。
鎌倉時代の北条氏以下、中世の武家一般も、この源氏との血縁や臣従関係を前提にした序列意識を有していた。源氏を出自とする武家にとっては、頼義の子のうち義家の子孫が嫡流と位置づけられるようになり、それ以外を出自とする武家にとっては、頼義・義家・頼朝に従ってどのような功績をたてたかが、その武家としての正統性を主張するうえで基本的な要件となった。
この封建社会のガチガチさよ! そして、頼朝が編み出した政策は現代の管理社会に脈々とつながっているのではという著者の野口先生の言葉を読んで、私の身の回りでも思い当たる節があるかもなあと肝が冷えた。コミカルな演出の合間からゆるやかな不穏さが漂う今期の大河ドラマのお供にぴったりの1冊だ。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。