旅する気持ちでブルーバックスを読もう
2020年からずっと「なぜ私はこんなに旅行がしたいんだ。旅ってなんなんだっけ……?」と何度も考えている。出入国のスタンプが押されるはずだったパスポートの空白のページをじっと見つめる。だんだんわけがわからなくなる。旅ってなんだよ。
そんなふうに色々と見失いそうなときにブルーバックスを手に取ると「ああ。これだ」と元気を取り戻す。見知らぬものにふれて胸が震える瞬間は、旅の醍醐味と似ているからだ。大人になってから科学が好きになった。ぱあっと視界がひらけるんです。
とくに海洋研究に関する本が大好きだ。海のふしぎと、それを解き明かすさまがいい。ビーチでうとうと居眠りしながら眺めていた美しい海は、私のまったく知らない世界を秘めていた。なあんだ、自宅のソファで海を知って「へええ!」と驚くのも幸せじゃないか。
『インド洋 日本の気候を支配する謎の大海』もそんな楽しい海の本だ。目的地はもちろんインド洋。インド洋の誕生物語に始まり、世界中の気象における要っぷり、人類との長い長い付き合い、そして面白い生きものたちと出合う。フルコースの長旅だった。楽しい夏休みを過ごせた。
そして、この本は著者の蒲生俊敬先生の海洋研究にまつわる物語でもある。これがとっても楽しい。海の研究者が何に胸を躍らせ、どんな波乱を乗り越えてきたのかを一緒に体験できる。
たとえば、日本の海洋調査隊がインド洋の海底温泉(海底熱水活動)を世界で初めて見つけたとき。それがどんなにうれしく誇らしいことかは次のくだりを読めばすぐにわかる。
「かいこう」が船上に引き上げられると、研究者は前面のサンプルバスケットに駆け寄ります。ぼくは金塊よりも大切な採水器をしっかり抱えて、船内の実験室に運び込みました。採水器のバルブを開けると、熱水の強い火山ガス臭(硫化水素臭)が、みるみる部屋中に充満! ふつうなら鼻をつまんで逃げ出すところですが、待ちに待った熱水試料と思えば、悪臭も芳香に変わるのです。
金塊よりも大切な採水器には、インド洋の海底温泉の熱水が入っている。これを化学分析すると海底温泉の正体がわかるのだ。
イエメンとソマリアに面したアデン湾を調査したときの話も印象深い。
なんとしてもこの機会をものにせねばと意気込みました。(中略)今年ダメでも、また来年があるさ、とはいかないのです。
とはいえ、海の研究者はたいてい楽天家で(ぼくもそうですが)、いったん観測が始まるとベストを尽くすことだけに集中します。過度の使命感や悲壮感にとらわれる人はあまりいません。
しかしこのときの航海では、まったく別の理由で、少し緊張を感じていました。
海洋科学の本でありつつ、冒険の物語でもある(蒲生先生が緊張した理由、必見です。私もヒヤヒヤした!)。
インド洋のユニークさを知りたい!
ところでインド洋と聞いてどんなイメージを思い浮かべますか?
太平洋や日本海に対して感じる親近感をインド洋にも抱いていたかと問われたら、私は否だ。モルディブがあって、スケーリーフットというオリジナリティあふれる巻き貝(これも先日ブルーバックスで出合った。最近いちばんお気に入りの生きものだ)が深海で暮らす海域。そのほかはパッと思いつかない……そんな私に本書はとても優しい。「1-1 どこからどこまでがインド洋?」という絶妙な章から始まるのだ。そう、インド洋ってどこからどこまで?
インド洋、かなり広かった。そして地図を見て「あれ?」と気がつくのがこちらだ。
インド洋の大きな特徴といえば、三大洋のなかで唯一、北極海とのつながりがないことです。巨大なユーラシア大陸が、北側を完全にふさいでいるからです。
ここでもう「インド洋、すごくいいね」と思う。インド洋のユニークさをもっと知りたい。こうして、よちよちとインド洋の世界にはまっていった。
インド洋の謎めいた存在感は本書の中で繰り返し言及される。謎ということはつまり、それまで調べる人がいなかったということだ。なんで?
インド洋の学術的な調査・研究は、太平洋や大西洋に比べ、大きく遅れをとってきました。その大きな理由の一つは、インド洋が、海洋観測に長(た)けた欧米諸国から遠く離れていること。そのため、研究船による観測の頻度が、どうしても低くならざるをえなかったのです。
しかし、第二次世界大戦後、「これではいけない、インド洋のことをもっと知ろう」という国際的な気運が高まっていきます。
ちょっと後回しにされてきたインド洋だが、いざ調べてみると蒲生先生を「なんじゃ、こりゃあ?」「まさに呆れるばかりでした」と驚嘆させる事実の宝庫だった。日本の深海調査研究船「かいれい」は、インド洋初の海底温泉を発見し、この海底温泉は「かいれいフィールド」と呼ばれることになる。
単に発見したにとどまらず、「そこから熱水、岩石、生物といった研究試料を初めて採取した」ことにも、大きな価値がありました。これらの試料をもとに、さまざまな分野において世界初の研究ができたからです。(中略)たとえば「はやぶさ2」が小惑星リュウグウから岩石試料を持ち帰ったことにも匹敵する、海洋科学の大成果だったのです。
「かいれいフィールド」の発見をきっかけに、インド洋での海底調査が堰(せき)を切ったように活発になり、新しい海底温泉や熱水生物群集の発見が相次いでなされます。
そう、インド洋の海底はおもしろいことだらけ。ダントツで激しい超巨大噴火を繰り返すトバ火山だってある。しかもユニークなのは海底だけじゃない。海面もすごいんです。この本のタイトルにもある「日本の気候を支配する謎の大海」について紹介したい。
インド洋といえば、プロローグでも簡単にご紹介した「ダイポールモード現象」に触れないわけにはいきません。東京大学の山形俊男教授らによって1999年に発見されたこの気候変動現象は、なにかと地味な存在だったインド洋を一躍、世界の海の檜(ひのき)舞台に押し上げたといっても過言ではないでしょう。
ダイポールモード現象とは、インド洋の熱帯海域における表面水温が、西側で異常に高くなり、逆に東側では低くなる状態のことです。
インド洋はユーラシア大陸で北側をふさがれた海であり、そのためインド洋の北部では、夏と冬で風向きが反転する強い風「モンスーン」が吹く。モンスーンはよく耳にしますよね。モンスーンはインド洋の海流に影響をあたえる。
世界でも他に例のない、季節によって向きの変わる海流です。もうおわかりかと思いますが、前節で述べた季節風のなせるわざです。夏季と冬季で風向が逆転するために、海面もそれに順応し、海流の向きが逆転するのです。
気流と海流と気候はつながっている。そしてダイポールモード現象の影響範囲はこちら。
世界中だ。じゃあ、具体的に何が起こるか?
たとえば、東アフリカのケニア周辺では、集中豪雨と洪水、バッタの異常発生、マラリアなどの感染症の蔓延(まんえん)に頭を悩ませることになります。一方、ボルネオ、スマトラ、オーストラリアなどでは、猛暑と旱魃(かんばつ)によって、農作物に大きな被害が生じます。加えて、乾燥した森林は、大規模な火災を引き起こしやすくなります。
ああ、どれも知っている出来事だ。ニュースで見聞きする世界各地の気象や災害の大元にインド洋のダイポールモード現象があるなんて。
インド洋限定のふしぎな生きものたち
こんなにユニークな海で暮らす生きものは、やっぱり、心惹かれるおもしろさにあふれていた。「第5章インド洋を彩るふしぎな生きものたち」では、シーラカンスや、ウロコに覆われた巻き貝スケーリーフットといったふしぎな生きものと、彼らがなぜユニークであるかの理由が紹介される。
これだけたくさんの海底温泉が世界中の深海底に散らばっているのなら、そこにすみつく生物は、どこへ行っても似たりよったりでありそうな気がします。ところが、あにはからんや、顕著な地域性(棲み分け)が認められるのです。
今まで私の中でインド洋代表のおもしろ生きものはスケーリーフットで、この本でも彼らに関する詳細な説明を読んでニヤニヤしたが、もう一種お気に入りがみつかった。熱水噴出口のほとりでびっしり集まって暮らす、約5センチメートルほどの長さの白いエビだ。蒲生先生による楽しい紹介を読んでほしい。
彼らはカイレイツノナシオハラエビとよばれ、その甲羅の内側にびっしりと付着させた化学合成微生物をエサとして暮らしています。この化学合成微生物に硫化水素をたっぷり与えるべく、熱水噴出口に近づきますが、近づきすぎると自分が熱にやられてしまいます。そこで、赤外線センサーの機能をもつ特殊な眼(め)を進化させ、熱すぎずぬるすぎずのほどよい位置をキープする、という離れ業を演じています。
海底温泉でいいあんばいの熱さを探るエビの群れ……想像すると満面の笑顔になる。私がカイレイツノナシオハラエビたちと直接会える日は来ないかもしれないけれど、末長く繁栄してほしい。こうやって遥か遠くのインド洋に想いを馳せて大切にしたくなる本でもある。
読めば読むほどインド洋を好きになった。謎とロマンがつまっている。インド洋最高!
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。