「陸の出っぱりより、海の凹みのほうがはるかに大きい」
陸から見ると海は平たい。海にはビルも線路もない。でも、遠浅な海水浴場で泳いでも、やがてつま先が底からはなれ、振り返って岸を見ると「なんだ、ちょっとしか泳いでないじゃないか」と思う。そのままもう一度海に向き直ると、海原がドカンと広がっている。底知れない世界にちょびっと入っただけで、まだまだ海は深くなるぞと気付く。ちっとも平たくない。
『なぞとき 深海1万メートル』が見せてくれるのは、イメージとまったくちがう海底の世界だ。深海って、しーんと静かで、冷たくて、何もない真っ暗な場所だと思われがちだけど、本当はとても生き生きとした自然環境であるとわかる。ぞくぞく楽しくなる本だ。フルコース! 中高生にも読んでもらいたいし、大人の私もみっちり読んで4歳の甥っ子に質問攻めされたい。
本書は冒頭からただならぬオーラを放っている。
さまざまな出来事のほとんどが陸の上で起こる。陸のほうが、はるかになじみが深いので、われわれはふだん陸の地図しか見ない。
わかる。スマホの地図でも海は水色でベタ塗り。でも海底の地形はこんなにいそがしい。
海溝がびっしり! しかも海溝の深さが桁違い なのだ。
世界中の海の深さを平均すると3700~3800メートルになる。いっぽう陸の高さは、世界最高峰エベレスト(標高:8848メートル)のような屹立(きつりつ)部もあるが、平均すると約800メートルしかない。つまり陸の出っぱりより、海の凹みのほうがはるかに大きい。面積も海のほうが広いのであるから、陸をそっくり削って海へ運び入れても、海を埋め立てることはできない。
陸にいると海底は「ちょっとニッチな世界」なんて考えがちだけど、実はマイナーでもなんでもなく、むしろ陸よりダイナミックな世界だとわかる。しかも独特だ。次の図で「そうだったの!?」と思った。
大陸地殻のほうが海洋地殻よりも軽いのだ。地殻はマントルの上に浮かぶ存在であるが、軽 い大陸地殻のほうがマントルから余分に浮かび上がる結果、2段構造が形成されるのである。(略)
地球表面にたまたま凸凹があり、その凹部に水のたまったのが海、という単純な話ではないのだ。
大陸と海底は別物! しかも日本はこの異世界に囲まれた国でもある。「排他的経済水域(EEZ)」ってニュースでよく耳にしますよね。
日本は世界6位のEEZ保有国である。国土面積は38万平方キロメートルと世界62位だが、国土の12倍近い面積の海をEEZとして管轄している。
地図で薄々感じてはいたけれど数字で見るとインパクトが大きい。しかも、海底は「なにもない」どころか、いろんなものがいっぱい待つ場所だった。
海って、どうなってるの?
本書の前半では「人間はどうやって深海を調べてきたか?」が語られる。大昔の人だって「海ってめちゃくちゃ深いけど、実際どうなの? どこまで深いの?」と気になっていたのだろう。
つい100年ほど前まで、海の深さ、すなわち海面から海底までの距離を知るには、ごく原始的な方法に頼るしかなかった。それは、ギリシャ・ローマ時代までさかのぼる「錘測(すいそく)」である。
錘測というのは、船べりからおもりをつけたロープを垂らし、おもりが海底面に到達したら、くり出したロープの長さから水深を求める方法だ。
数百年のあいだに素材や方法を工夫していたとはいえ、意外と最近まで海にドボンとおもりを落として測っていたんですね。じゃあ今は?
20世紀に入ってまもなく、測深技術に大きな革新がもたらされた。音波を用いて深さを求める方法(音響測深法)が実用化されたのだ。錘測に対して「音測」とも呼ばれる。
おもりをドボンと落とすよりもはるかに効率がよさそう 。音測によって海底の詳細な地形がみるみるわかってきたのだという。
これは全体に通じる感想なのだけど、本書はちょうど知りたいタイミングで知りたい話が必ず登場する。読んでいてとても気持ちがいい。だから子供のような気持ちで「なるほど。じゃあこれはどういうこと?」と矢継ぎ早に質問がうかび、答えをもらい、ますます深海を好きになる。
深海をこの目で見たい!
ジュール・ヴェルヌの小説のような深海への冒険の話も楽しい。「第3章 この目で見たい! ──究極の深みへ挑んだ英雄たち」で深海に挑んだ研究者や潜水船の技術が語られる。そして「第4章 ヒーロー現る──5大洋の最深点すべてをきわめた男」に登場するアメリカのヴィクター・ヴェスコーヴォ が凄まじかった。まず冒険の「きっかけ」がいい。
ヴィクター・ヴェスコーヴォは、(略)これまでにエベレストを含め7大陸すべての最高峰に登頂。さらに北極点と南極点にスキーで到達するなど、探検家として輝かしい経歴の持ち主である。
2015年頃のある日、彼はふと、世界の5大洋(太平洋、大西洋、インド洋、北極海、および南極海)の最深点が、西太平洋のチャレンジャー海淵を除き、人類未踏であることに気がつく。「何ということだ」と驚いた彼は、世界の超深海に最初の足跡を残そうと、探検家の熱血をたぎらせていった。3年以上かけて、周到に準備が進められた。
「何ということだ」から始まる世界中の海溝に挑む冒険譚が読める。そして冒険はそのまま研究にもつながるんですよね。夢と技術とガッツで切り拓く超深海(6000m以深)の世界。楽しい。
生物活動だってしっかりある!
本書は後半に進めば進むほど深海のにぎやかな声が聞こえてくる。そう、生物がいるんですよ! 深海にどんな生物がいて、どんな場所で暮らし、いかにして命をつなぎ、旅をしているかがわかる。とってもユニークだし、けなげなんです。「深海、絶対に大事にしなきゃ……」と思う。
深海には、とてつもなく奇妙な姿の生物が多い。なぜならば、その生息場所が極限環境にあるためであり、その環境への適応として奇妙な体を獲得したのだ。なんと、体の臓器や器官を失っている動物もいる。
この極端な動物の名前はハオリムシ。ミニマリストすぎる。へんてこだなあと思うけれど、もっと不思議な事実も紹介したい。
食卓に上る魚を見慣れているせいか、深海生物は姿形が“特殊”というイメージがあるのではないだろうか。しかし、系統分類においては浅海の動物たちと大きなちがいはない。というのも、深海に固有の門は見つかっていないのである。
このあと続々と登場する「深海と超深海にいる動物」の名前は、お魚マニアでもなんでもない私ですらよく知る馴染み深いものだった。なのに臓器がなかったり、深海の水圧に潰されなかったり、なんなんだ君ら……(この潰れない秘密も教えてもらえます!)。
しかし、そんな極限環境に生物が存在しているかどうかなんて、どうやって研究していったのだろう。陸より広く、探検家が頑張って頑張ってやっと訪れるような世界なのに。この疑問にも本書は気持ちよく答えを教えてくれる。しびれた。
ごく最近まで、海溝底は、生物活動とは最も縁遠い絶境、とみなされていた。
深海底堆積物の表面から内部にかけて棲む生物は、(略)光合成に由来する有機物が、マリンスノーとして深海に向かって落ちてくるのを辛抱強く待つのだ。
マリンスノーは、降下していくあいだに、微生物による酸化分解を受けて大部分が消失してしまう。(略)海溝底は、海面から最も遠い。有機物の到達量は、海面からの距離に応じて少なくなるはずだから、海溝底ともなれば、生物活動はきわめて最も貧弱に違いない── という、常識的な解釈が長く続いていた。
しかし、本当にそうだろうか?── と疑うところから研究がはじまる。
わくわくする。生物は酸素を消費するから、海溝の堆積物が含む酸素の消費量を測れば「生物が活動している」と判断できる。深海には謎が多いけれど、だからこそほんのすこしの手がかりも逃さずにかき集めて世界を見ようとする。錘測の時代から続く人間の強い探究心だ。
最後まで読むと各章の扉に始まりで登場する不思議なイラストの意味が「ハッ」とわかる。これは熱水噴出口の絵で、どうしてこんなに、くり返して出てくるのかなと思っていた。でも今はよくわかる。
本当にきれいだ。この美しさがわかると、資源開発や環境汚染が深海に与える影響と、それがどうして問題なのかもズーンと心におさまる。知るって大事だな。無数に湧き出る疑問をひとつひとつ丁寧に解きほぐしながら深海の面白さと尊さを伝える本だ。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。