硬派な新書や文庫の、裏表紙をめくったところに書かれた言葉が好きだ。そこには、レーベルを立ち上げた時の意気込みや思いがつづられている。むろんすべての書籍にあるわけではないから、見つけると嬉しくなって何度でも読み返してしまう。本という媒体にこめられた先人たちの願いと熱意が、数十年経った今でもそのままの温度で保たれている空間。ページを開くたび、背筋が伸びる。
そんなひそかな楽しみを持つ身として、本書のタイトルを見た時には思わず目を見開いた。ご存じかもしれないが、本書が属するブルーバックスにも「発刊のことば」がある。そこでは、1963年の創刊において「科学をあなたのポケットに」とうたわれている。そのレーベルで、この題名。つまり「あなたのポケットに今入れようとしているものは、なんなのか?」とあらためて問い、答えているようなものだ。すごい挑戦だと思った。
だからなんとなく身構えて読み始めたのだが、予想よりやわらかい語り口に、だんだんと肩の力が抜けていった。冒頭では、かつてアインシュタインが来日した時の日本人の反応を紹介しながら、科学者の社会的評価について触れている。いわく、それは科学的な尺度のみによって決まるべきものではない、と。
科学の成果を一般にわかりやすく普及したり説明したりするのに長(た)けた科学者が、専門的業績に秀でた研究者より社会的な知名度が高いというのは珍しいことではない。スポーツ選手の人気が成績だけで決まるものではなく、インタビューでの受け答えやルックスなどにも左右されるのと同じだ。専門家が要求することと社会が要求することは、必ずしも一致しないのである。
いっぽう、「科学的に誤った事柄を正しいことであるかのように吹聴する」人々が、社会でもてはやされる危険性も指摘する。たとえば代替医療やワクチン反対運動などで、そういった「専門家」が見受けられる場合。彼らが専門的な学会で実際に評価されることはほぼないが、一般の人々にその事実は伝わりにくい。そういった溝を、どう埋めるのか。その答えは、本書のテーマや指針にも繋がっていくものだった。
専門家だけの見方でもダメ。素人だけの評価でもダメ。いったい、ぼくたちはどうすれば良いのだろうか? この本は、両極端ではない第三の道を進むための、ガイドブックを目指したものである。道は決して平坦ではない。
本書の前半では、STAP細胞をめぐる出来事やノーベル賞受賞までにかかる時間などを例に、日常的な「事実」とは別の、科学における「事実」がどのように認定されるものなのかを説いていく。その上で、著者自身の体験や視点も交えながら、科学史と科学者のあり方を紹介する。また後半では、科学をめぐる現在の状況と研究法、そして日本での現状にも目が向けられる。
その中で興味をひかれたのは、第5章「科学知と生活知」。一例として、名門大学の優秀な学生を対象にしたある実験が挙げられていた。彼らは半年間、大学で脳神経科学入門の講義を受け、それなりの知識を得た人々だ。だがその実験においては専門家と真逆の反応を示し、一般の素人と同様もしくはそれ以上に誤った判断を下したという。これは、「知識の『誘惑幻惑効果』」と呼ばれるものだそうだ。
つまり、脳神経科学の知識をもっていることと、それらの知識を適切に使うこととは、まったく別の能力なのである。むしろ、知識があることがその適切な使い方を妨げ、その知識を使わないほうがより適切な場面でも知識を使ってしまう誘惑に、ぼくたちは駆られている。知識は、使うように使うようにと人を誘惑し、幻惑する。
思わず苦笑した。こうなると、知ることが良いとは限らない。しかし、今の私たちの生活から科学は切り離せないし、これまでに得てきたものを手放すこともできはしない。いま、世界で猛威を振るう感染症はもとより、いつ起こるかわからない災害や病気、事故など、あらゆる局面で現象を解きほぐし、解決を担っているのが科学。だからこそ、その力を使う側にほころびがあることを頭の片隅に置きながら、専門家への頼り方や見極め方、活かし方を考えていくよりほかないのだろう。
各章の冒頭に引用されたアガサ・クリスティーの小説のように、鮮やかな結論を期待しているとちょっと肩透かしかもしれない。だが「科学」がどのように今に至り、これからまた進んでいくのかを、多様な視点から知ることは十分にできる。まずはスタイリッシュなデザインの目次を眺め、気になる章から読み始めることで、あなたなりの「科学」との付き合い方を考えてみてほしい。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。