“世界の果て”の先にある南極
たった一度行っただけで、それから何年たっても「すごいところだった」と話したくなる場所がたくさんある。アクセスが容易ではなかったり、情勢が不安定だったりすると、ますます「ああ、どうやったら行けるんだろう」「次はいつ行けるんだろう」と焦がれる。
もし“南極”に旅行したら、どれだけ私は大騒ぎするのだろう。『南極ダイアリー』を読みながら世界地図を思い出すまでもなくわかる遠さにクラクラした。“世界の果て”なんて呼ばれているアルゼンチンの港から南極へ向かう船旅。お供はマダラフルマカモメやワタリアホウドリ。絶対に寒いだろう。海も荒れそうだ。
(略)上陸して観察するときには小型のボートに乗りかえて海岸に向かうことになるが、前の上陸地で付着したバクテリアなどを別の島に人為的に運んでしまうことがないよう、新たな場所への上陸前と帰船後には、船のデッキに用意された消毒液で靴(たいていは長靴を着用している)のそこを洗うことが求められる。
ゴミはもちろん、外来種を持ち込むこともご法度。秘境にたどり着いたあとも注意深く観光しないといけない。
波に躍るボートの動きが少しでもおさまる瞬間に駆け足で乗りこむと、大急ぎで波打ち際を離れる。(略)
何とかボートが海岸を離れ、船に戻りついたときには、全員が海に落ちたかのように全身がずぶ濡れになりながら、ビニールの袋におさめたカメラだけをしっかりと抱えていた。
手間がかかっても、ずぶ濡れになっても、知りたくて見たくてしょうがない心をみたす旅だ。極寒の秘境を進むのはきっとラクじゃない。でも、一度でいい、南極に行ってみたい! そう思わせてくれる1冊だ。ペンギンやシャチはもちろん、研究対象のアホウドリ、そして珪藻類やオキアミすら好きになってしまう。
南極で奮闘するペンギン
『南極ダイアリー』の著者、水口博也さんは写真家。ジャーナリストとして20年前から南極を繰り返し訪れ、そこで暮らす生き物たちを取材・撮影している。この本の主役は南極で暮らすペンギンたちだ。
写真/水口博也
ご存知コウテイペンギンの番いと雛。成長すると体高が100~130cmになるそうで、小学生と肩が組めるくらいの大きさだ。
野生のペンギンがいる世界は、どんなところなのか。
ところどころに、まるで砂糖の上に行列をつくるアリのように、道をたどるペンギンたちの小群が見える。全員がそろって黒く見えるのは、海から巣に帰っていくペンギンたちの背の色。腹部の白が目立つのは、巣から海に向かうペンギンたち。まさにジェンツーペンギンたちのハイウェイである。
ペンギンが「アリのよう」に見える世界。写真はこちら。
写真/水口博也
ジェンツーペンギンたちが営巣地と海との間を行き来する道が雪上に刻まれる。
写真/水口博也
きまった通り道をたどるジェンツーペンギンたち。通り道は踏み固められ、ペンギンたちにとっても歩きやすい。
本当にアリっぽい。この本ではたびたび「ゴマ粒」という表現も登場する。こちらもペンギンの群れをあらわす言葉で、実際に目の当たりにした人だからこその言葉だ。ペンギンをアリやゴマ粒と呼べる人はそうそういないはず。
そして、ゴマ粒ほどいる彼らはちょいちょいアザラシに食べられてしまうし、卵も捕食の対象だ。過酷だなあと思いつつも、この本を1冊まるまる読むと「食べる」ことの力強さがよくわかる。最終的に「どの生き物も贔屓できないよ……」となってしまう。
だから余計に写真が魅力的なのだ。
写真/水口博也
かつての捕鯨基地の跡に残されたクジラの頭骨のうえで休む、ナンキョクオットセイの子ども。リースハーバーで。
オットセイだって子育てをしている。(動物の赤ちゃんって本当にかわいいな)
写真とあわせて、文章のはしばしから「水口さんは動物好きな人に違いない」と感じて嬉しくなる。「かわいい!」という愛玩っぽさではなく、そっと見つめ、じんわり優しくて節度のある関係を築いていることがわかるからだ。
(略)毛皮の間に断熱材としての空気を多く含むのだろう。彼らの姿を水中で観察すると、オットセイでは毛皮の間に含まれた多くの空気がこぼれ出て、体のまわりから多くの気泡がたちのぼるのを見ることができる。
海のなかのオットセイがどんな様子なのか(そしてアザラシやアシカとはどうちがうのか)。やっぱりこれも実際に目の当たりにした水口さんならではの視点だ。
想像しただけで愛らしくて悶絶しそうな場面も語られる。
(略)三脚をたてて撮影しているとき、何故カメラが揺れるのかと訝ってみると、雛が三脚に体をもたせかけていたこともある。あるいはひざまずいて撮影していたとき、ふくらはぎに生温かさを感じて見下ろすと、一羽の雛がぼくのふくらはぎを枕がわりに休みはじめたのだった。
しゃがみこんだ姿勢を長くつづけたために、腰をのばそうと立ちあがると、驚いた雛たちがいっせいに遠ざかる。しかし、ふたたびしゃがんで撮影をはじめると、またすぐにぼくのまわりを埋めつくした。ぼくは雛たちを驚かせないよう、二度と立ちあがることはせず、這うように少しずつ移動しなければならなかった。その代償は、ズボンを泥とペンギンたちの糞まみれにしてしまったことだ。
ズボン、臭かったろうな。いやでも、ずっとこんな世界が続いてほしい……この独特の距離がとてもいい。でも、この本を読むとペンギンたちが暮らす環境の過酷さが痛いほどわかる。そして彼らの未来がそう明るくないことにも気がつく。生やさしい世界じゃないのだ。
繰り返し訪れることでわかる「変化」
水口さんが南極を訪問した回数は20回以上。考えてみてほしい、3~4回おなじ国に行ったら「常連さん」な気持ちにならないだろうか。すみからすみまで探索しようと思わないだろうか。そして、訪れるたびに、その土地のちょっとした差異に気がつくはずだ。
つまり、20年にわたって見つめてきたからこそわかる「南極の変化」があるのだ。たとえば先ほど紹介したジェンツーペンギンのハイウェイ。
ペンギンたちとともに雪の斜面を登りはじめると、身をもって近年の豪雪を感じることができる。(略)以前は雪があっても、普通に長靴で問題なく歩くことができた場所で、近年は深い雪のなかに足を踏みいれてしまい、きわめて歩きにくい所が増えてきた。
日本にいると「温暖化が叫ばれているのに豪雪?」と考えてしまうかもしれないが、舞台は南極。夏の暖かい時期に雪が降る。気温が上がり降雪量が増え、人間にとって歩きにくい土地になると、そこはジェンツーペンギンにとっても同じく歩きづらい。つまり餌を取るのが難しくなる。餌が減れば育つ雛も減ってしまうし、種の存続に関わる。
先にも書いたが、南極を訪れる人間に、(種子やバクテリアすら持ち込まないよう)厳格なレギュレーションが課せられるのは「人間のちょっとした行為が南極の種の破滅につながる」からだ。
ペンギンだけじゃない。アザラシ、シャチ、オキアミ、原索動物のサルパ、そして珪藻類……命は食べて食べられてつながっている。ある視点から見ると、この本の出来事は人間の命や生活を脅かさないかもしれない。でも、世界の果ての先はたしかに変わっている。
自然のふるまいは、いつも人間の予想をこえた形で現れるものだ。(略)「想定外だった」という開発者や為政者たちの言葉で幕がひかれることは、これまでたびたび経験してきたことである。
人間が自然のふるまいを完全には理解できないこと、自然や環境の変化について想定外のことが起こりえることこそが常に想定内であること、それ故にぼくたちは自然に手をつけることに最大限に慎重に、真摯にならなければならないことを、そろそろ学んでもいい。
自然のふるまいにギョッとしたことのある人は多いはずだ。とくに2020年は疫病の広がりに「なんなんだ?」と呆然とした。想像もつかない角度から殴られるような「なんなんだ?」を、日々をただただ元気に生きる大変さを、極寒の秘境で暮らす生き物たちも感じているのだとしたら。そう想像すると『南極ダイアリー』でありのままに綴られる世界の胸躍るさまと、変化と、不穏さは、そのまま私たちの世界と重なる気がしないだろうか。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。