とある中華料理屋で食事をした時のこと。店内に置かれたテレビからは、各国のコロナ対策に関するニュースが流れていた。その店は台湾出身の店主が切り盛りする店だったので、会計時、他愛なく台湾政府の対応を称えたところ、思いがけない言葉をもらった。「日本の人は政府のやり方にどうして怒らないの? もっと怒ればいいのに!」と。
私の口から思わず出たのは、「怒り方がわからないんですよね……」という、なんとも情けない答えだった。言った自分も苦笑い。店主は一瞬呆れたような、でも何かを納得したような笑顔で、応援する言葉をかけてくれた。ただそれからずっと考えている。怒るって、どうやったらいいんだろう?
本書は、著者いわく「『統治の崩壊』と言うべき段階に陥った」現在の日本政治や社会について、さまざまな媒体で発表された考察や分析をまとめた1冊である。もともと政治思想史の研究者であった著者は、2011年に起きた福島第一原発の事故を機に、そうした時事的な発言へも踏み込むようになったという。
それは、研究者・文筆家として思いがけない成り行きであったが、私を駆り立てたのは、「何とかしてこの国の崩壊を止めなければならない」という思いだった。
その使命感からだろうか。何より驚いたのは、熱量の高さだ。とにかくずっと怒っている。特に第一章では、文章だけでなく行間からもあふれ出る怒りを感じる。それは第二次安倍政権による度重なる失政と腐敗、政治の不正と私物化に対するものから始まり、ひいては昭和の大戦と戦後の政府、そして国内だけでなく米中韓といった国際的な関係から生じた事象にまで向かっていく。
時に容赦なく、苛烈とも思える言葉は、その対象者を乗り越えて燃え盛る炎のように、読み手にまで迫りくる。どれも十分に納得できる理由と文脈があったものの、ここまで怒りを抱き続けられる胆力に、ただただ恐れ入った。それと同時に、「ああ、こんな風に、ここまで怒ってもいいんだ!」という、新鮮な驚きと発見もあった。
いっぽう第二章以降では、近現代史と現在を丹念に照らし合わせ、現状を分析する試みも多くなされている。個人的には、日本学術会議任命拒否に対して語られる滝川事件(京大事件)との類似や、都内の単位制高校に通う男性の身に起きた「常人逮捕」からの「転び公妨」の話など、おぼろげにしか知らなかった事柄や耳慣れない単語に関する解説がありがたかった。それは戦後の沖縄返還や朝鮮戦争と日米の思惑も同様で、「なんとなく知っているけれど、何がどう問題で今に続いているのか」があやふやな事柄について、縦横無尽に駆け巡る著者の思考を必死に追いかけることで、思いがけず復習できることばかりだった。
そして肝心のタイトルについては、終章にてこんな風に語られている。
なぜ私たちは、私たちの政府はどうせロクでもないと思っているのか。その一方で、なぜ私たちは、決して主権者であろうとしないのか。この二つの現象は、相互補完的なものであるように思われる。私たちが決して主権者でないならば、政府がロクでもないものであっても、私たちには何の責任もない。あるいは逆に、政府はつねにロクでもないので、私たちに責任を持たせようとはしない。
ここから著者は、問いを重ねていく。責任とは何なのか。日本人の強固な政治不信、国家不信の正体とは何か。その上で、「主権者たる」ために必要なものとは。……その結論はぜひ、ご自身の目で確かめてほしい。これからこの国が変わっていくために、「怒り方」と新たな視点を知ることで、見えなかった道がきっと鮮やかに見えてくるはずだ。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。