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2020.12.03

特集

孤高の芥川賞作家、田中慎弥初めての恋愛小説『完全犯罪の恋』。著者エッセイ

野望と妄想

田中慎弥

 有名な文学賞がほしい、売れる小説が書きたい、モテたい、毎日ただで飲み食いしたい、さらには高級車を乗り回したい、豪邸に住みたい、果ては、惜しまれながら大往生し、自らの名が冠された文学賞に後輩作家たちが涎を垂らす様をあの世から見下ろして高笑いしたい、というように作家にはいくつかの野望があるものだが、その中に、恋愛小説のいいやつを一作は書いておきたい、というのがある。一作といわずいくつでも書けばいいじゃないか、というのは恋愛ものをたくさん書いている作家にしか言えないことで、それまで色気と無縁の作風だった書き手にしてみれば、一作だけでも、となるのであり、そんな具合に力が入っているものだから、そのたった一作にさえてこずってしまうことになる。

 私も今回、てこずった。柄にもなく恋愛小説に手を出してしまったのだ。なんの動機もないまま、なんとなく書こうと思ったわけではない。これは恋愛小説なのだ、と一人で勝手に力んでいるからには、それなりの取っかかりがあった。まず、四十代も後半に入り、昔のことを思い出す時間が増えた、正確に言えばそのくらいしかやることがなくなってきた、という我ながら痛々しい状態にあること。回想。ノスタルジー。懐かしいあの頃に戻ることが出来たなら、必ずあの人に思いを告げよう……これはもう人間として男として、下手をすると作家としてもおしまいである。せっかくおしまいなのであれば、この情ないノスタルジーを、過去と現在の自分を対比させる形で小説に出来ないものか、と考えた。二十世紀の終りを地方都市で過す高校生と、二十一世紀の東京に生きる作家。その前に現れる二人の女性。全体の構図を、一応このように描いてみた。

 だが、自分を土台として主人公を仕立ててはいるものの、実際には高校生の頃、ろくに恋愛も経験していない。どこかにモデルとなる美しい女性はいないものだろうか……

 などと考える前から頭のどこかで確実に、小松菜奈の顔を思い浮べていたのだと思う。全体の構図は自分のノスタルジー発だが、私の鉛筆を駆動させたインスピレーションは、完全にこの女優から来た。今回の小説とは関係なく以前から、不思議な目をしている、と感じていた。映画やCMで見る度に、この人の視線の先はどこなのだろう、そこではいったい何が起っているのだろう、と思っていた。恋愛小説を書く、という野望を立てた時、あの目がいっそう強く迫ってくるようだった。あの視線の先に何があるのかを確めたい。そこで起っていることを書き留めたい。

 作家というのはとんでもない妄想をするものだ。人間として危険なことかもしれない。書いている最中は迷いなく彼女を追いかけ、彼女に引きずり回される感覚で進んでいった。下書きを終える前の二日間ほどは、これこそ気味の悪い妄想だが、ほとんど彼女が自分のすぐ傍にいる錯覚があった。筆が進むという点ではありがたいが、視線の先と、視線の持主である彼女自身、その両方を追いかけなければならない点では大変だった。油断すると逃げてゆく。追いかける。また逃げられる。そうしてやっと確実につかまえた、と思った時にはもう書き終る寸前で、終ると同時に彼女は消えた。追うことから解放されたあとには、彼女の面影を濃く宿した女性が登場する一つの小説が残った。

『完全犯罪の恋』という大げさなタイトルを持つ小説の執筆過程は、だいたいこのようなものだった。原稿用紙にして約二百枚だからそんなに長くはないが、へとへとになった。いままで手を出さなかったジャンルであるばかりでなく、結末に近くなってきた時、構想の段階で描いていたのとは正反対のラストへと急激な変更をしてしまったためでもあった。おかげで清書に取りかかる前には、ラストと呼応させる必要上、初めの方まで遡って様々に手を加えなければならなくなった。

 小松菜奈だけでなく、何人かの芸能人の名前を拝借した。思い出のある映画のタイトル、影響を受けた作家とその作品も出てくる。ストーリーそのものは全くの創作だが、これはやはり、こんな恋愛がしたかったという願望も含めての、私自身についての小説だと言える。私小説以上に私が出ている、と言った方がいいか。モテない自分を反映させた分、女性の描き方に自信がない。批判でもいいから、女性読者の感想を聞きたい。

(たなか・しんや 小説家)

読書人の雑誌「本」11月号より

完全犯罪の恋

著 : 田中 慎弥

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