医療の進歩の流れは変わらない
奥 真也
2025年、初の本格的認知症薬誕生。2030年、AI診察が主流に。2035年、ほとんどのがんが治癒可能に。……
『未来の医療年表 10年後の病気と健康のこと』(講談社現代新書)は、21世紀になって「完成期」を迎えた医療が今後の10年ほどでどう進化していくのか、そして我々はその時代にどう生きていけばいいのかについて書いたものです。
医療は20世紀後半に急速な進歩を始め、21世紀に入ってそのスピードを増しました。そのことに実感として気づいていた医師は多かったし、普段医療に携わっていない人たちの中でも漠然とそう感じていた人は少なくなかったかと思います。
しかし、医療の完成に向かってまっしぐらに進むかと思っていた人類に立ちはだかったのが新型コロナウイルスでした。今このウイルスが全世界で猛威を振るうタイミングで「医療は間もなく完成する」「人類は病気を克服する」と言われても、本当だろうか、と訝(いぶか)る人も少なくないのではないかと思います。
でも、そんなことはないのです。先ほど、「立ちはだかった」と書きましたが、実のところは「立ちはだかったように見えた」と言うほうが正しいのかもしれません。このウイルスは一つの厄介な感染症の原因であるとともに「infodemic(情報災禍)」としての側面が大きいからです。
人間は未知のものを恐れます。見えざるもの、そして、自分の理解が及ばないものへの恐怖により、我々の現代社会は新型コロナに対して過剰な防御反応を示しています。もちろん、この感染症が時として死をもたらし、また、十分に有効な治療薬もワクチンも完成していないことは事実です。根拠のない安心神話は慎むべきとも思います。それでも、社会が過剰反応に偏ることは、人類と病気の闘いを非効率なものにしてしまうことは確かだと思うのです。
このような意味において、新型コロナウイルスが、完成に向かっている医療の行く手を阻むほどの存在であるとは思えません。医療の進歩の流れは不変である、ということです。
営々とした長年の苦労の末に人類が漸(ようや)く手に入れた「医療」の現状と近未来を正しく知ることにより、「医療完成時代」の招かれざる同朋である新型コロナウイルス感染症にも冷静に対処できると、私は信じています。
私は若い頃には長年、放射線科医として臨床の現場で働いていました。医学部を卒業した1988年頃はまだまだ解決できていない医学的課題が多く、医療の無力さを痛感させられることがとても多かったことを思い出します。
しかしその後、医学は、遺伝子レベルの病気の究明を可能にした分子生物学、顕著な発達を見せた情報科学を代表格とする様々な科学の発達を貪欲に取り込んで、みるみるうちに進化していきました。
そのスピードは21世紀になってますます加速しました。分子標的薬や免疫チェックポイント阻害剤によって劇的に変化したがん治療がその典型例と言えるかもしれません。その他の医学分野でも、また創薬や医療機器の開発技術などでも、大きな進歩が見られました。
それに呼応するように、人類の平均余命は画期的に延伸し、また同じ年齢の人を比べた場合の人々の元気さも確実に改善してきたのです。そして、今、我々は「死なない時代」を可能にする高度な医学・医療を間もなく手にする段階に至っているというわけです。
それでは今後、どういうことが起こるのか。2020年の今、我々が残存する大きな課題だと思っているがん、神経疾患、認知症、感染症……これらの難敵が次第に消滅することは約束されています。また、それぞれの疾患領域の医療の完成に伴って起こるべき、公的医療保険制度の変革、AIドクターの台頭、安楽死の問題への社会としての取り組みなどについても我々は準備していく必要があります。前世紀には我々が想像することさえできなかった――医師である私も同じです――画期的な進化をこれから皆で経験していくことになるのですから。
本書により、病気と医療の未来予想図と、それを享受するための健康に関わる新常識を、多くの皆さんが手にしてもらえることを願っています。
(おく・しんや 埼玉医科大学総合医療センター客員教授)
読書人の雑誌「本」10月号より