フェイクニュースはワクチンのない現代病
本城雅人
フェイクニュースというのは大昔からあった。マスコミでは「飛ばし」とも呼ばれていて、明らかに嘘と分かって報じるニセニュースもあれば、取材した結果、おそらく実現しないだろうと思って報じるもの。さらにはあるプロ野球の球団幹部が、新監督候補にファンがどう反応するか、人気調査のためにリークする観測気球的なものまで様々あった。今はメディアも関係者もそうした「飛ばし」はあまりやらなくなった。不用意に嘘ニュースを発信して、ネットの情報網に潜り込んでしまうと、瞬く間に拡散され、訂正したところでなかったことにはできなくなったからだ。
最近はメディアより、SNSを利用する個人がニュースを発信、伝播(でんぱ)する役目に変化した。この新型コロナウイルスのさなかも、たくさんのニュースに混じってフェイクも流れた。たった一人のSNSが商店やスーパーからトイレットペーパーを消した。「ウイルスは日本に来ない」「入ってきても重症化しない」「若者は感染しない」など様々な情報が、人々を混乱させ、医療従事者を疲弊させ、経済を止まらせて、未曾有の危機に陥れたのだ。
タチが悪いのは、こうしたニュースの多くは誰かを貶(おとし)めようと作為的に発信されたものではなく、ベースにある情報に乗っかり、自分もコメントしたい、自分の発言に興味を持ってほしいと話を盛ったり、不確かな事実を織り交ぜて理論武装したりという、人間が生まれながらに持っている承認欲求や正義感に起因していることだ。
私は数年前からフェイクニュースをテーマに小説を書きたいと思ってきた。だが作為的にニセ情報を流した人間と対峙する物語は、どこか現代的ではないと思い、その違和感を拭うことができなかった。発端はどうあれ、スマホやパソコンを活用するたくさんの人がデマの「共犯者」になっている。いくら「俺はガラケーだからその手のニュースには惑わされていない」と主張したところで、ニュースは知らず知らずのうちに耳に入り、無意識に誰かに伝えている。
いまやフェイクニュースはワクチンも治療薬もない「現代病」であり、人類はフェイクニュースと共生していくしかないのだ。
ただ共生せざるをえないからこそ、面白い情報、すぐに誰かに伝えたくなる情報ほど、「ん?」と疑問を持つことが必要だ。
今回刊行する『オールドタイムズ』の主人公・不動優作の口癖は「耳あたりのいい言葉にこそ眉に唾をつけて考えよう」だが、実際はそんなカッコいい信条で生きてるというよりは、ネット情報にはあまり詳しくない典型的なアナログ人間である。パソコンが不得手で、いまだに会議は紙の資料がないと不安になる。もし世の中の全職種がリモートワークに変わったら、まったく役に立たない。
「あっ、それ俺のことだ!」
そう思う読者も結構いるのではないか。
夕刊紙の記者だった不動だが、社のデジタル化への安易な移行に反対したことでリストラされ、渋々、ウェブニュース社『オールドタイムズ』の立ち上げに加わる。そこは夕刊紙の仲間に、新聞とはまったく無関係の若い男女も入った、たった7人の弱小メディアだ。その小さなメディアが目指したのが、世の中の大半が信じ込んでいる大ニュースに疑問を持つことだった……。
もっとも私の経験から言えば、これまで世間がひっくり返るほどの大ニュースのほぼ全ては、「マジで?」と耳を疑ったものばかりだ。野球なら「野茂引退してメジャー入り」「新庄メッツ」はしばらく信用できなかった。サッカーの「ジーコ」や「イニエスタ」の来日は「ありえない」。昨今の芸能ニュースなら「SMAP解散」「嵐活動休止」も「まさか……」。文春砲と呼ばれる相次ぐ芸能人のスキャンダルも、不倫などしそうもない人間だからこそ、一瞬でネットがざわつく。実は「ん? ホントか?」とワンクッション考える時間があった方が、真実だった時も衝撃が大きくなっていく。
つまり多くのニュースは、実はフェイクと紙一重の状態で世の人の耳(実際はスマホ?)に届いているのだ。これまでの傾向からも、相次ぐスクープで、人々が知った情報を疑わないまま広めるようになった時こそ、そろそろとんでもないフェイクニュースが発生する頃合いだ。リアルの世界でも「まずは疑うことから始める」オールドタイムズのようなメディアの出番なのである。
(ほんじょう・まさと 小説家)
読書人の雑誌「本」8月号より