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2020.07.11

特集

藤枝静男の弟子が神に捧げる「師匠説」、『会いに行って』著者エッセイ

「会いに行って」書いた

笙野頼子

 この大切な記憶を何度書き直しても、或いは何度語っても所詮現実ではこう言うしかない。彼には「一度しか会っていない」、二度目に会いに行った時、私の、心の師匠はもういなかった。お骨になっていた。お葬式の日の藤枝の緑は濃く、浜松の空は高く澄んで青く明るかった。用宗の海も澄んで青く、色は淡いけれどこれは銀色を浮かべ、光を飲み干したブルーだった。私はこの輝く青と青に吸い取られた。

 五十海(いかるみ)の岳叟寺にたどり着いて、お骨になったその姿をみた時、私の号泣は始まってしまった。まさか自分がこんなに泣くとは思っていなかった。でもどうしても、のどがまっぷたつになった。つまり生涯、これは忘れられないこと。彼は昔、私のために号泣してくれたのだ。その思い掛けぬ擁護が、私の人生を変えた。

 四十年前の四月、群像新人文学賞の選考会での事、田久保英夫さんと論争した上で彼は私を激賞し最後に怒って、私は選ばれた……普通選考委員はそこまではしない。むろん知り合いでもなんでもなく、それどころか彼は作者を五十代の男性と思い込んでいた。

 そこからその後十年、私は本が出なかった。ずっと持ち込み原稿、しかしそんな時でさえ彼に選ばれたという理由だけで私の拙い作品をよんでくれる人がいた。文壇バーで怖い目に会いそうな時に、ふと彼の名を出したら助かった事もあった。師匠亡き後、私が芥川賞を受賞した時、選考委員挨拶に出てきてくれた大庭みな子さんは「笙野頼子は藤枝静男に見いだされ」という言葉でスピーチを始めた。いつも、師匠は後ろにいてくれた。しかし私の本がやっと出てお送りした時、彼は既に長く入院していた。私などお見舞いに行っても迷惑と判った。そんな事情で拝み仰いだ彼に会えなかった。そしてやっと会いに行ったら、……。

 儀式が終わると泣きながら帰りの電車に乗った。藤枝駅から浜松駅まで来た時泣き止んでいた。独特の青い空を貪るように見た。

 あの日泣いていると全身からありもしない彼の記憶が生まれて「蘇え」った。彼のいた風景、湿度、知っている人々や代々のお寺、海、空、山、大木、大地、仏像、その土地の精霊、それらをすべて私は受け取って帰った。しかも本当に「会ってきた」感触がどこかにあった。今思えば上の、病院を継いだお嬢さんが師匠とそっくりだった。外科医的で理知的な大きい黒目、意志が強そうなのにぷるんとした唇。私は師匠を内蔵する彼女に会ってきたのだ。まっすぐでそっくりで、きっと気性も似ているのだろうと。

 彼、藤枝静男は貧しい家の次男に生まれ愛されて育った。八高に入学し文学に引かれつつも医者をめざした。結核と家族の死、戦争と拷問が彼の体を何度も踏みつけて通った。挫折を繰り返しながら軍医を経験、浜松の大病院の後継者となった。病院の跡取り娘である彼の夫人は、買い物も銀座一流店、両手で商品の範囲を示し、「これ全部頂戴」と言う女性だった。しかし彼は私小説にそのようには書かなかった。

 戦後、この愛されて育った優しい名医は、天皇が文学を揶揄した時、東京新聞文芸時評に書き本気で叱った。同時にマルクスもネップ理論も彼は、何も信じなかった。

 彼とは何だろう、それは彼の育った土地であり、身体そのものであり、彼が学生時代からその元に通った志賀直哉との濃密な時間であり、平野謙、本多秋五との熱き友情であり、父母、兄弟姉妹、妻、二人の娘であった。さらには「ご近所の作家」小川国夫、「最良の読者」埴谷雄高、地元静岡の眼科医であった彼を信頼して、一日四百人押しかけた患者達や、藤枝文学舎を育てる会の人々のような、彼が会ったすべての人間であった。彼はそのような他者によって形成され私小説を書いた。目の前にあるものを逃さず、逃げなかった。誰よりも自分自身に厳しかった。本当は緩く優しい自分をいましめながら、心にいつもすべての宇宙を内蔵した。それ故、小説内の金魚も茶碗も、竜も河童も、いきなり人間の顔をして語りはじめるのだ。リアリズムの完璧な小説から始めたもの、それは幻想小説とは来歴の異なる彼の内的真実であり、けして細部の正確さと温度を失わなわぬ「私小説」であった。

 彼についていつか書く事をここ三十年、私は期待されていた。拙くともこの本『会いに行って 静流藤娘紀行』は、その期待してくれた多くの人々を「内蔵」する事で成立している。カバーの装画までも浜松在住の版画家で藤枝静男オタク、青木鐵夫氏にお願いした。これらすべての支援に感謝を捧げる。

(しょうの・よりこ 小説家)

読書人の雑誌『本』2020年7月号より

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