まずはじめに言っておこう。
こういうタイトルの本は大っ嫌いだ。
なんだよ人生を拓くって。おまえなんかに俺の人生がわかってたまるかよ。偉そうに語ってんじゃねえよ。
生来、素直じゃないもんだから、「人生を拓く」なんて言われると反射的にそういう態度になってしまう。
にもかかわらず本書を読もうと思ったのは、主として2つの理由がある。
ひとつは、自分がすごく小っちぇえからだ。
自分は身体も悪いし、プロフィールには記してないがバツイチでもある。人より失ったものが多いわけで、そのぶん多く悟っていたっていいようなもんなのに、まったくそうじゃないのだ。ふざけんなとか、なめんなよとか、くそったれとか、しょっちゅう思っている。もうすこし泰然としたところがあったっていいじゃないか。安岡のような大人物の思想にふれれば、そういう小っちぇえところもすこしは改善されるのではないか。本書にふれたのは、そんなささやかな希望があったせいだ。
さらにもうひとつ。安岡正篤について、野次馬的興味があったからだ。
安岡正篤と聞いても、多くの人にとっては誰それ?だろう。ひとことで言えば、昭和の歴史すなわち日本の現代史に、もっとも大きな影響力があったと言っても過言でない人である。本人はそう言われるのをとても嫌がったそうだが、早い話が「黒幕」だ。
安岡は、終戦の詔勅、玉音放送──今年の夏も耳にすることになった「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」というアレだ──の作成に「※刪修(さんしゅう)」という立場で関わっている。
※刪修:不要な語句をけずって文章を整えること。
また、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など、昭和の宰相たちの多くは安岡を師とあおいでいる。当然、施政方針演説の制作にも関わっているし、政治に関して相談を受けることも多かった。現在もある自民党最古の派閥「宏池会」も、安岡の命名である。三菱や住友など、大企業の幹部の多くも安岡の弟子であった。松下幸之助もまた、安岡に学んだひとりである。
最近はテレビで見かけることも少なくなったが、一時期大流行した占い師・細木数子は、安岡正篤の最後の愛人だった女である。年齢を重ねてからの細木はまさに当たるも八卦当たらぬも八卦だったが、安岡の愛人をやっていたころは本当に先読みができたにちがいない。
すなわち、安岡は戦前戦後を通じ、現代日本の政治・経済に大きな影響を及ぼした人物なのだ。著書も多く、現在でも容易に入手することができる。
本書は安岡の著書やエピソードから、その思想の片鱗を伝えることを目的に制作された1冊である。筆者は安岡の言葉に人生を大きく変えられた経験を持つ人で、安岡の著作から幅広くテーマを抽出し、親切な解説を加えている。安岡のガイドとしては一級品だろう。
しかし残念ながら、本書は読者の野次馬的興味を満たすようには作られていない。
たとえば、本書では安岡25歳のデビュー作『王陽明研究』が高級官僚の目にふれたことが、信奉者が数多く生まれるきっかけとなったと述べている。
しかし、どんなに著作が優れていようと、安岡ほどの力を持つに至るには、その思想とは別の要因があったはずだ。「優れている」と「影響力がある」は断じてイコールではない。
ゴッホは生前、絵が1枚しか売れなかった。宮沢賢治は詩集と童話集をそれぞれ自費で出版したが、まったく受け入れられなかった。そんな例はいくつもあるし、今もある。優れているから多くの人に届くわけではないし、力を持つわけでもない。
なぜ高級官僚の目に止まったのか。なぜ宰相の相談役になり得たのか。知りたいと思った。そんなことを安岡本人が書き残しているはずがないから、まさに野次馬的興味である。下世話ではあるけれど、とても興味ぶかい。
だけど、そんなのどうでもいいんだ。
安岡は次のように語っている。
──すべて東洋精神の根本は自己の衷(うち)において、『天命』を獲得するにある。天命などというものがすでに己惚(うぬぼれ)の強い現代人に不愉快を与えるであろうが、静かに考えれば、これほど味のある厳粛な言葉はないと思う。天命とは我々の衷に働く、止むに止まれぬ絶対至上命令である。この命令の権威こそは人間の疑うに疑えぬ実在である。故にこれを『明徳』という。──
天命というものがあるとすれば、それを知ろうとするのが人生かもしれない。野次馬的興味で動く時間なんかないのだ。この本にそれが記してないのは、ひょっとすると天の采配かもしれぬ。そういう感情を抱かせるような思想が存在することを知ったのは、自分にとってたいへん得がたい経験であった。まさに思想の力であり、本書の力だろう。
もっとも、小っちぇえ自分をなんとかしたいという当初の要望は、現在もまったく解決されていないのである。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。2013年より身体障害者になった。
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