同じ側で
物語を書いているとき、僕は自分がいったい何を書いているのかをあまりわかっていないことが多い。もちろん前提となる大きなテーマはあるものの、そのとき自分に見えているものをそのまま文字に落とし込んでいるだけで、何を書くかはまったく意識していないから、見えているものにどんな意味があるかまでは考えないし、たぶん考えてもわからない。
僕の頭の中に広がる空想世界は、むしろこの現実世界よりも僕にとってはよほど現実そのもので、そこにあるのは曖昧であやふやな幻想などではなく、いつもはっきりとした形や重さや匂いを伴っているし、そこに暮らす住人たちは僕が空想していないときにも、それぞれ意思を持って自由に振る舞い続けている。
空想世界そのものは薄く淡い光でつくられていて、集中していなければあっという間に僕の前から消え去ってしまうので、僕は自分の頭の中に潜り込んで見聞きしたものをなんとか必死で書き留めるのに忙しく、だから、たぶんこの行為は創作というよりも、単に記録と呼んだほうがいいのかもしれないと常々思っている。
それでも、書き終えたものを自分で読み直せば、あるいは読んでくれた人の感想を聞けば、そこにはただの記録ではない何かがあるようだから不思議でならない。意味などわからず書き綴った文字には、僕自身もすっかり忘れていた古い体験や感覚がこっそり紛れ込んでいて、たとえはっきり描かれていなくとも、読むことで僕はそれを思い出すし、僕以外の人たちもなぜかそれを思い出すらしい。
ずっと僕の内側だけにあった淡い光の世界は、ひたすら書き留めることで、人々を招き入れることのできる堅牢な構造物へと変わるのだろう。空想と現実との境界線がしだいに曖昧になり、読まれるたびに自分と他者とが混ざり合っていく。互いが境界を超えていくその感覚がおもしろくて僕は物語を書いているように思う。
考えてみれば子供のころから僕は境界を超えるものが好きだった。河川の合流を何時間も眺めていたし、県境を示す標識を見かけるとワクワクした。遠くの海が空に溶けていく色合いも、昼が夜に塗り替えられていく夕景も、コーヒーとクリームが混ざる様子も好きだった。明確にわかれているものよりも、その間に惹かれた。いつもそこには何かがあった。
出自の複雑さもあって、僕は自分がどこにも所属できない存在なのだと感じていたし、実際、あらゆる場面でお前はこちら側ではないと暗に示され続けてきたように思う。どこにも所属できない僕は拭えない所在なさを与えられる代わりに、境界を超えて自由に行き来するコウモリの自由を得たから、今ではそれもあんがい悪くなかったと思っている。
引こうと思えばどんなものにだって境界線を引くことはできるから、ともすれば僕たちはものごとを境界の向こう側とこちら側にわけて自分の居場所を確認し、こちら側でいることに安心する。
けれども、境界線のこちら側と向こう側を行き来しながら、それぞれの場所から反対側を見ると、片側からでは見えない風景が見えることがある。そして、きっと多くの真実は境界を超えるところから生まれていると僕は確信している。
そもそも視覚に障害のある選手とともに走る伴走者に関心を持ったのも、彼らもまた境界線にいると感じたからで、最初はただ障害者と健常者の間にいる存在なのだろうくらいに思っていたものの、取材を進め、物語を書いているうちに、僕は伴走者と選手との境界こそが曖昧なのだと気づくことになった。
伴走者は選手と向かい合って手を差し伸べるのではなく、いつも隣に立って同じ方向へ顔を向けている。そこにあるのは境界線の向こう側でもこちら側でもなく、互いが同じ側にいるという感覚だけだ。それがどちら側なのかに関係なく、ただ同じ側に立つ。その関係こそが人が人を信じるための出発点なのだ。
自分で何を書いているのかわからないまま書き進めた『伴走者』がこのたび文庫化される。あらためて読み返してみると、結局のところ、描かれていたのは人と人が互いの境界を超えてつながりあう物語だった。それは誰かの物語ではなく僕自身の物語だったし、きっとこの本を手に取ってくれる人の物語でもあると思っている。
浅生 鴨(あそう・かも 小説家)
読書人の雑誌『本』2020年3月号より
BS-TBS開局20周年記念ドラマ「伴走者」
2020年3月15日(日)19:00~ BS-TBSにて放送予定!
https://www.bs-tbs.co.jp/bansousha/