遁走の季節
性犯罪にもピンからキリまでがある――なぞと云っては、当節のはやりでもあるらしき"不謹慎"なる語の元に、無意味な糾弾の炎上を見かねぬ仕儀にもなろう。当然、被害に遭った人の心の傷に、軽重の差なぞはあるはずもない。
が、加害者の身内──殊にそれが妻帯者だった場合、その伴侶からすればやはり件(くだん)の罪には許せるレベルと許せぬレベルと云うのが存在するのではあるまいか。例えばあくまでも私個人の考えとしては、強姦と出歯亀行為では量刑の多寡が異なる点もさることながら、後者であればまだしもそこには夫婦としての共同生活を継続してゆける些少の余地も生じる印象がある。
無論、これにはその妻の性格面が大いに与るところに違いない。覗き行為でもそれをやってのけた夫を敢然と切り捨てる妻もいれば、強姦致傷でも婚姻関係を続ける妻と云うのも、少なからずはいるものであろう。
私の母の場合は、瞬時に夫を見離した。罪状もヘビー級であったが、たとえそれがもう少しライトであったとしても、人一倍潔癖な質の母がその種の罪を犯した相手を許す様(ためし)はなかったはずだ。
一瞬にしてそれまでの生活が瓦解したが、その母は当時小学五年だった私と中学生の姉の登校を即時止めさせた上で、自身は被害者関係と家業の運送店の後始末をし、その傍ら、強硬に離婚の手続きを進めていたようである。その甲斐あって、と云うのも妙なものだが、とあれ事件からひと月も経たぬうちには、母は旧姓に戻った上で、最早(もはや)瓦礫と化したその家から私たち二人の子供を連れて逃げだすことができた。
四辺が暗闇に包まれた時間帯を見計らっての、まさに夜逃げのかたちである。
一面、この妻――私にとっては母も、紛れもない被害者である。また、十四歳の思春期であった姉の絶望も、なまなかのものではなかっただろう。だが、身体にも心にも実際に傷を負わされた被害者がいる以上、所詮は戸籍上は他人になったり、闇に乗じてそれまでの生活地帯から逃れ出てみたところで、加害者家族はどこまでも加害者家族のままなのである。結句(けっく)、その罪なき罰は永久につきまとい、一生の手鎖にもなる。
この際、時間の忘却作用は働かない。それどころか時間が経ち、歳月を経るにつれて、もう一つの問題が生じてくる。服役していた当事者の、その刑期を終えての出所と云うのが近付いてくるのだ。
嚢時(のうじ)の母の怯えは、傍目から見ていて異様なものがあった。かつてそれまでに警察署や拘置所の面会室で一方的に離婚を迫り、激しい面罵を加えた元夫の、その出所後の報復に怯えていた。かの人物は、ひどく執念深い質でもあったのだ。
そのとき、私は十七歳も半ば以上を過ぎていた。直前に住み込みで働いていた洋食屋から、店主に殴られ文字通りに叩き出されて(この仔細は長篇『嬬動で渉れ、汚泥の川を』に書いた)無職に戻り、金をせびりに母の住むアパートに逗留していた。
そして私もまた、内心では父の出所が間近いことに、茫漠とした不安を抱いていたのである。
世には性犯罪が溢れている。その種の事件の報道は連日の如く目にし、そして余程のことがない限りはすぐと忘れる。余程のことがない限り、とは、つまりはそれぐらいにありふれていると云う話でもある。なれば性犯罪の加害者家族と云うのも、これは決して珍しい存在ではなく、他人に関するその報道はすぐに忘れても、肉親のそれには今まさに生々しい痛みをかかえ、理不尽な十字架を背負わされた怒りの中にある人もいるはずだ。そしてかつての私たち母子同様、その当事者の出所に不安と恐怖を覚える人も――。
当然、この『瓦礫の死角』と云う野暮な短篇集は、その人たちに向けてのメッセージ的なものは毫も含んでいない。第一、この物語で加害者の倅(せがれ)たる北町貫多なる十七歳、無職の少年が取った方策は、まこと不甲斐ない自己保身と自己中心者的思考による、母を見捨てての遁走である。こんなもの、恥の上塗りもいいところだ。
しかしながら、ここが私小説の或る種の持ち味でもある。普通ならば主人公の苦悩を苦悩らしく描出し、以(もっ)て何かしらの作者なりの答えを提示するところなのだが、私小説は自身がそのとき実際に思い、取った行動をベースにしか書けぬ。そこから逸脱し、都合よく物語を展開しては、それはもう私小説たりえない。
だが反面、それだからこそ、このガムシャラだった遁走、敵前逃亡の苦き追憶は、虚飾を抜きにした現実問題に際しては、案外な有効性を孕むようにも思われるのである。
西村賢太(にしむら・けんた/作家)
読書人の雑誌『本』2020年1月号より