文学の『檸檬の棘』、音楽の『檸檬の棘』
二〇一六年の春、咽頭ジストニアと診断された。
声帯をコントロールする筋肉が言うことをきかなくなる病気だそうだ。要するに発声障害。明確な治療法や特効薬はない。
私の音楽が死ぬ。何よりも大切にしていた唯一の授かりもの、私の声が。
そうしているうちにどんどん声は出なくなり、幽霊のように透明で、か細く震えるだけの吐息になってしまった。こうなると音楽どころではない。電話に出ることも、人を呼び止めることも笑うこともできない。私自身が本当に幽霊になったようだった。きっと地縛霊だろう、歌いたくて死んでいった音楽家の遺恨。
私は誰かに罰して欲しかった。歌えない自分を罵って、もう二度と音楽など望まないよう徹底的に傷つけて欲しい。だが、そんな思いとは真逆に周囲の人々は私に同情し、励ましの言葉さえかけてくれた。
私は自分を鎮めるために小説を書くようになった。とめどなく湧き上がる創作への衝動を弔うために、それらを全て文字にして吐き出し続けた。音楽になれなかった言葉たち。それらを可愛がることでなんとか命を繫いでいたのだ。
二〇一八年の春。私は未だ絶望していた。快方に向かっていた喉の調子が再び低迷しはじめ、一度は復活しかけた音楽活動が再び止まったのだ。
音楽への未練を断ち切ることもできていない。駅前で歌うストリートミュージシャン、デパートのBGM、テレビのCM、道ですれ違った子供の歌声、カンカンと響く鉄槌(てっつい)のリズム、雨の音、鳥の声、いかずち、玄関のチャイム、高速道路を走るときの風。世界は音楽で溢れていてどこにも隠れることができないのだ。
正直に言ってしまえば、死にたくてたまらなかった。歌えない自分を呪い続けることにも疲れていたし、薄っぺらい歌詞を軽々と歌い上げる新人歌手の声を耳にしたりするとその衝動はますます加速した。
『檸檬の棘』を書き始めたのはその頃だ。ずっと書かないと誓っていた私小説を書き始めた。
かつて、私は父親との確執というありきたりな問題を抱えた少女だった。その怒りを燃やして思春期を突き進み、案外タフな大人になったと思う。自分が大人になるにつれて父の気持ちもなんとなく分かるようになるわけで、あの頃の沸(たぎ)るような憎しみは薄れつつあったし、死んでしまった父を思い出すことさえなくなっていた。
それなのにわざわざ昔のことを掘り起こして書き始めたのだ。私はこれを活字的自傷行為だと思っている。きっと血を流していなければ耐えられなかったのだ。私は鮮血にまみれて痛みを実感したかった。
二〇一九年春、『檸檬の棘』第一四稿を提出した。初めての私小説は迷走に迷走を重ね、自分でも制御できない謎のエネルギーを持って毎日形を変え続けていた。
しかし、どうしようどうしようと悩みながら向かう原稿の中に音楽が流れていることにふと気付いた。
「私が死んだら心臓はコニャックに漬けて檸檬の木の下に埋めてね」
「世界が壊れた記念に檸檬の苗を植えた」
特にこの部分は明確に旋律を持っている。私は喉の調子の良い時間帯を見計らい、メロディを録り貯めていった。
私小説の中には文学にも音楽にもなれる言葉たちがゴロゴロ転がっている。もはや止めることはできなかった。
私の文学に音楽が流れているのは思えば当然のことなのかもしれないが、音楽家としての自信を喪失していた私はなぜかそのことに気付いていなかったのだ。
気付いてしまえば形にするしかない。あれこれ理屈を考える前に、体が作り始めていた。声に艶(つや)が戻ってきたのである。
どどっと曲が出てきたのを、その勢いで生け捕りにした。上手く歌えないことなどどうでも良くて、とにかく全貌を見てみたいという一心だったと思う。
フルアルバム『檸檬の棘』の制作を進めながら私はひとつ心に決めたことがあった。小説『檸檬の棘』を第一稿に戻して刊行しようと。
全てが自然な流れだ。今、私の音楽と文学がちょうど真ん中で釣り合っているのを感じる。そして私は回復した。
両作品が無事に世に出てほっとする間も無く、私の中には三つ目の「檸檬の棘」が生まれているのである。文学と音楽と空間。私は檸檬の棘を空間にしたい。
異常なほどの粘り強さで私を待っていた人々へ、何か特別な贈り物がしたくなったのだ。だから檸檬の棘を空間にして、そこへ彼らを招き入れようと思う。
「檸檬の棘」は私自身だ。私の中へようこそ。
(出典:読書人の雑誌「本」12月号)
黒木渚(くろきなぎさ 小説家・歌手)