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2019.10.04

特集

一人称炸裂! 僕やおれやわたしの『縁』の物語【小野寺史宜エッセイ】

僕やおれやわたしの縁の物語

僕はほぼすべての小説を一人称で書いている。はっきり決めてはいないが、今のところ、三人称で書くのはそうすることに意味がある場合だけと考えているので、実質、決めているようなものだとも言える。

三人称が嫌いなわけでは、まったくない。むしろ好き。物語を伝えるのに最適なのは三人称だと思ってさえいる。

三人称は自由だ。誰か一人に寄せた一元視点にもなれるし、いわゆる神の視点にもなれる。自在に物語を俯瞰(ふかん)させることができる。

例えば、銀座の話を進めていていきなり、そのころ五反田では、と書いてもいいし、現在の話を進めていていきなり、二百年が過ぎました、と書いてもいい。極端なことを言えば、ミステリーの中盤でいきなり、結局犯人は吉田くんなわけですが、と書いてしまってもいいのだ。神はお見通しだから。

対して、一人称は視点を限定する。僕やおれやわたしのそれのみ。銀座にいる僕に五反田のことはわからないし、現在を生きるおれに二百年後のことはわからない。犯人は吉田くんだとわたしが唐突に言いだしたら、知ってて隠してたのかよ、と読者のかたがたに怒られてしまう。

自由度は高くない。僕やおれやわたし自身の感覚で書くしかない。自分が他人にどう見られているかわからない、他人が何を考えているかもわからない。という、まさに一個人の感覚。

僕にはそれが合うらしい。制約があるほうが、かえって書きやすいのだ。その制約を活かせるというか、楽しめる感じで。一つの街の話や一晩の話が好きなのもその表れだと思う。

ただし、制約は本当に多い。名前一つとってもそう。僕やおれやわたしが初対面の人に会うとする。カワイです、とその人は言う。カワイ、と書くしかない。初めて会うその人が河合さんなのか川合さんなのか河井さんなのか川井さんなのか、僕やおれやわたしが知っているはずはないから。

初めから河合さんだと著者権限で決めてしまって、そう書けばいいのかもしれない。そのほうが違和感はないのかもしれない。でもそれもなぁ、と思ってしまう。一人称にも神出てきちゃってんじゃん、と。

僕の小説で主人公と面識のない人物の名前がカタカナで記されたりするのはそういうわけなのです。別にカッコをつけたりもったいぶったりしているわけではないのです。

とナゾの言い訳をすませたところで。
『縁』です。

えん、ではなく、ゆかり、と読みます。

一人称、炸裂します。僕+おれ+わたし×2。四人の一人称。でも一つの話です。さらに言ってしまうと、一つの出来事を四人がそれぞれの立場から語る類ではありません。

四人は微妙な縁でつながっています。濃淡は様々です。濃い縁もあれば淡い縁もあります。四人以外のところでも、無機的な縁は多く存在します。登場人物たち自身も知りようがない。そんな縁です。

その手の縁に、何故か強く惹かれます。縁もゆかりもないなんてことは、人が生を享(う)けた以上、あり得ないのかもしれません。

前々からそういうことを、連作短編ではなく長編で書きたいと思っていました。二人の一人称なら何度か書いていますが、四人を今回のように対等な形で書いたのは初めてです。

去年、『ひと』という小説を出しました。そこで描いたのが人と人の縁の表の部分だとすれば、今作『縁』で描いたのは人と人の縁の裏の部分です。

人は人との不和が原因でおかしな方向に進んでしまうことがあります。人との融和がきっかけで踏みとどまれることもあります。そのようなことは、たぶん、毎日どこかで起きています。でも人が知れるのは、自分の周りで起きたことだけです。

四人の微妙な縁。読者のかたがたに、それこそ神となって物語を俯瞰してほしいです。一人称がどうとかいう先の戯れ言(ざれごと)は忘れ、物語を楽しんでいただけたらうれしいです。

小野寺史宜(おのでら・ふみのり 作家)

(出典:読書人の雑誌「本」10月号)

著 : 小野寺 史宜

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