小さくて儚い、けれど重たい
もう数十年も前のことだが、掌で一匹のホタルを死なせたことがある。べつに潰したわけではなく、ただ包みこむようにして、その光る様子を眺めていただけだ。
ところが、その光はみるみるうちに薄らいでいき、やがてホタルそのものも、ぐったりしてきた。慌てて草むらに戻したが、回復する様子もない。そのまま、ぽとりと地面に落ちてしまった。
じゅうぶんに分別がついているはずの歳だったから、これは恥を忍んでの告白ということになる。どうやらホタルは熱に弱いらしい、ということを後で知った。人間の掌ですら、彼らにとってはフライパンのようなものだという。もっとも、これを科学的に検証した信頼できる報告などは、僕が探した範囲では見つからなかった。熱ではなく、単に捕獲されたことによるストレスなのかもしれない。
いずれにしても、あっけない死だった。もともと、はかない印象のあるホタルだが、これほどとは思わなかった。僕は少なからず衝撃を受け、深く反省した。今でも梅雨の季節になると、一度は脳裏を過(よぎ)る。逆に言えば、一匹のホタルの命が、それだけの重さを持っていたということだ。
この時以来、ホタルのいるような森や水辺には、何かおぼろげで弱々しく、生命になり切っていない存在の気配を感じるようになった。漆原友紀の人気コミック『蟲師』に出てくる「蟲」のようなものかもしれない。
実際、そんな「半生命」みたいなものは、いるのだろうか。
我々の祖先に関する究極の疑問
約四〇億年前、地球が誕生してまだ間もないころに、最初の生命も生まれたと考えられている。この時の生命は、すでに我々と同じような特徴をすべて備えていたのだろうか。たとえば体の内と外を分ける境界があり、ものを食べたり排泄したり、成長したり、子孫をつくったり、進化したりできたのだろうか。あるいは、その中の一部しか、備えていなかったのか。
また、そういう生命は、どこで生まれたのだろう。よく言われるように海の中なのか、陸上なのか、あるいは地下や他の惑星だったりするのか?
人の数だけ「生命の定義」がある
そのような疑問を抱きながら、僕は生命の起源や進化の解明を目指す多くの研究者と会い、長年、取材を重ねてきた。そして2017年からは、講談社ブルーバックスのウェブサイトで「生命1.0への道」を一年余り連載した。その一部を再構成した上で加筆・修正し、新たな原稿を加えたのが『我々は生命を創れるのか』である。
僕が抱いていたような疑問への答えは、研究者によって、まちまちだった。生命の特徴の一部しか備えていない「半生命」がいた、あるいは、いてもいい、と言う人は思いのほか多かった。しかし、そんなものは「ただの高分子です」と言い切り、やはりすべての特徴を備えていなければ生命ではない、と言う人もいる。そうした立場によって「どこで誕生したか」も変わってくる。
そもそも生命の定義は複雑で、いちがいには言えないという人もいた。確かにそうだ。科学だけに答えを求めるわけにはいかない。なぜなら日常的に我々が何かを「生き物だ」「生きている」と思うとき、生物学的な特徴だけが頭にあるわけではない。人によっては、自分が大事にしている人形や道具にでも、「命」を感じる時がある。実は科学者にさえ、それは当てはまる。彼らも我々と同じ人間だ。完全に客観的・科学的に生命をとらえることなど、不可能なのかもしれない。
フラスコの中に泳ぐ細胞は「生命」か「機械」か
今、「合成生物学」という新たな学問領域が注目を浴びつつある。その研究者の中には「生命とは何か」を解明するため、研究室で原始的な生命の創造を目指している人もいる。たとえて言えば、時計の構造やメカニズムを理解するために、自ら時計をつくってみようとするようなものだ。あるいは人間の脳の仕組みを知るために、人工知能をつくってみることにも似ている。
すでに僕から見れば「半生命」くらいのレベルに達しているのでは、というくらいの「人工細胞」が、彼らのフラスコには泳いでいる。あと四、五年すれば、物質的にも機能的にも、本物の細胞と同等なものが誕生するかもしれない。
その時、我々はその細胞を何と見るだろう。「生命」か、あくまでもミクロの「機械」か? そもそも我々は生命と、そうでないものとを、どう区別しているのか。その判断は、果たして確かなものなのか? 今回の本では科学の最先端とともに、そうした問題も正面から取り上げた。
「謝辞」には書かなかったが、僕に命の儚さと重さを教えてくれた一匹のホタルに、この本を捧げたいと思う。
(出典:読書人の雑誌「本」9月号)