認知症をミステリにすると
佐野広実
認知症を題材にした小説や映画は多いが、その嚆矢(こうし)といえそうなのは、『刑事コロンボ』の一作だと思う。
当時、認知症という言葉はなかった。しかし、作品の流れからして認知症、あるいはそれに近い症状が題材になっている。いまだに記憶に残るほど強烈な印象を受けたし、サイトなどで調べるとシリーズ中の傑作のひとつとして挙げているものもあった。未見のかたもいらっしゃるだろうからどのように扱われているかは書かないが、いまだからこそ考えさせられる一作だといえる。
認知症は自分が自分であることも自覚できなくなり、そして果てていくという点で、ほかの病気とは違う。よく「認知症になった人はこどもに戻るのだ」という言い方を聞くし、それはそれで間違いではないのだが、やはり個人差があるし、重度になると、ものものしい言い方をすれば「自我の崩壊」ということになる。軽度のうちは周囲とのつながりがわからなくなるくらいだが、最終的には自分が何者なのかすらわからなくなっていく。
当然のことながら、周囲からの観察ばかりで、本人がどういう状態なのか、なかなか当事者の言葉が聞けないというのも認知症のむずかしいところかもしれない。
数年前に認知症の人が徘徊しているうちに行方不明になってしまうという問題がニュースなどで取り上げられたことがあったが、『わたしが消える』という作品を発想したきっかけは、そのあたりにある。身元不明で発見された老人が認知症で、どこの誰かもわからない。身元を探っていくうち、その人物の過去が浮かび上がってくる。主人公も軽度認知障碍と診断され、十年後の自分を目にする思いから、身元不明のままで死なせたくないと考え、過去を探り出していく。
言ってみれば、ハードボイルドの典型である「失踪人探し」を少しひねった形でミステリにしてみたのだが、同時に、もし認知症の疑いがあると診断された人物が、それまでの人生を振り返って悔いや思い残すことがあるとしたら、どう対処するだろうという疑問も浮かんだ。
自分にまったく恥じない生き方をしてきたと思っている人なら、そんなことは考えもしないだろう。自分に従わないやつを潰してやったとか、自分より能力があるから追放してやったとか、そういう腹黒いことばかりでなく、あのときちょっと声をかけてやればあいつは死ななかったのにとか、あの日喧嘩さえしなければこんなことにはならなかったのにとか、たいていの人はなにかしらの後ろめたさや後悔を背負って生きていると思う。それを墓の下まで持っていくか、そういう事実があったのだと告げて果てていくか。
病気が進行してしまえば、なにを口にするか本人の自覚はなくなっていく。隠し事をしていたのに、それをさらけ出してしまう可能性もある。
認知症と診断されたとき、果たして人は隠し事や後ろめたさに、どう対処するだろうか。
おおげさなことを言えば、認知症をミステリにすると、そういう点も作品の大きなテーマになるのではないかと思う。
また、認知症になりかかっている主人公という設定なので、視点をどう処理するか、かなり迷った。結果としていくつも先例があるのだが、拙作では人称についての記述に工夫をしてみた。
もともと効率のよくない書き方をしていて、話の内容があるていど決まっても、文体が定まらないとなかなか書き出せない。小説を内容や構成だけから読んでも一向にかまわないとは思うが、文体にも注意を向けてもらえると、小説の読み方は拡がると思う。
ちなみに、最初に記した『刑事コロンボ』で主役を演じたピーター・フォークも認知症になり、最後は自分がコロンボを演じたことさえ忘れてしまったという。
いままでどう生きて来たか、これからどう生きていくのか。
認知症ばかりでなく、コロナウィルスの感染が世界規模で拡大しているいま、立ち止まって考えてみる時期が来ているのかもしれない。
(さの・ひろみ 小説家)
読書人の雑誌「本」10月号より