東日本大震災での実体験をもとに描かれた彩瀬まるさんの小説『やがて海へと届く』。
喪失と再生を描いた本書の文庫化を記念して、小説本編の一部を2回にわたってお届けします。
(全2回掲載の2回目・1回目はこちら)
彩瀬まるさんと住野よるさんの対談はこちら
大学のカフェテリアで事の次第を打ち明けると、すみれは「思っていたのってどんなだったんだろうねー」と歌うように言って首を傾けた。苦い笑いを含んだ目元は、傷つかなくていい、と言ってくれているみたいだった。私もつられて口角を上げ、「ねー」と向かい合った彼女と同じ方向に首を倒した。
坂を上り続け、やがてこんもりと樹木が茂った山すそへ辿りついた。舗装された道と左右に分かれるかたちで、踏み固められた土と木の杭で作られた遊歩道が始まり、雑木林の奥へと誘う。神社の名が刻まれた立て札を確認し、山道へ入った。木陰はいくらか呼吸がしやすい。蟬の声が高くなる。
本当は、と黒い土を踏むスニーカーの爪先を見つめて思う。なんか思ってたのと違う、と私もうすうす感じていたのかもしれない。爪を嚙む癖が目についた。バイキングに行くと好きな料理を手当たり次第に皿へ盛りつけ、そのくせ悪びれずに残すところが幼稚に思えた。子どもが好きなのかと思っていたら、ボランティアサークルは就活のためにやっているのだとあっさり答えた。きっと同じような、かつんかつんと引っかかる、彼にとっての「なにか違う」が、私の方にもたくさんあったのだ。
山の中の神社は鳥居の塗装が剝げてぼろぼろになっていた。お稲荷さんを祀っているらしく、社殿のそばで苔に覆われた狐の石像がゆったりと尻尾をふくらませている。賽銭箱に小銭を入れて手を合わせた。祈ることも思い浮かばなかったので、まぶたの裏の暗闇に意識を向ける。
お参りを終え、参拝客用の木のベンチに座って休憩する。ふう、と気の抜けた声を上げてすみれは足をさすった。
「だいぶ上ってきたね」
「うん」
「お、海が見える」
途中で買っておいたペットボトルのミネラルウォーターを回し飲みする。ど、と全身から汗があふれて気持ちがいい。土の匂いがする薄い風が、湿った首元を撫でていった。
「別れて、ちょっと、ほっとしたかも」
すみれはこちらを向いた。木陰にいるせいか普段よりも黒目の色が濃く、濡れて見える。
「じゃあ、落ち込むことないじゃん」
「でもー、でもさー」
頭を抱えて悩んでいると、すみれは少し呆れたように笑った。
「なによ」
「こわいよ」
「なにが」
「付き合うまで、すごく好きだったのですよ。あの子のこと」
「うん」
「でも、ほんとにつまんないことで、あ、違うってなったの」
「はいはい」
「で、さらによーく考えてみると、横顔とか、なんのサークルに入ってるかとか、すごく上っつらのつまんないことで好きになってたの」
「上っつらって大事じゃなーい?」
「私もうハタチなのに、ちゃんとした恋って、したことないのかもしれない」
生ぬるい相づちを無視して言い切ると、胸がすっとした。どうだ、と勇んだ気分で顔を向ける。すみれは煮え切らない様子で口をとがらせていた。
「ちゃんとした恋って、どうしてもしなくちゃだめかな」
まさかそんな返事が来るとは思わず、私は目を丸くした。
「えー、だめでしょ。老後に一人とかいやだし」
うーん、とうなりながら眉間にしわをよせ、すみれは少し間を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「父方の叔母さんがね、なっちゃんって呼んでるんだけど。いい人なのよ。やさしいし、トンボの目の回し方とか、オシロイバナの種の取り方とか教えてくれたし」
ちょっとまぬけな感じの親戚だな、と思いながらうん、と相づちを打つ。
「なっちゃんこの間、十年ぐらい連れ添った旦那さんを事故で亡くしたの。子どもはいなかったから、まだ良かったんだけどさ」
なにが良かったのかの実感が伴わない、ただ周囲の口ぶりをなぞったような言い方だった。言い終えると、すみれはうまく言えなかったとばかりに首を傾げて唇を嚙んだ。間を空けて、また口を開く。
「だから、たとえラブラブで結婚しても、一人になるときはなるじゃない。事故じゃなくても、病気とか、離婚とか、いろいろ。だから、どうしても一緒にいたいって人に会ったならともかく、そうじゃないなら、無理して誰かと一緒にいなくてもいいと思う」
「でも、その旦那さんは叔母さんのことをものすごく好きなまま死んだわけでしょう」
「うーん、そうね」
「この世で一番好きな人は、って聞かれたら、きっと旦那さんは叔母さんを選ぶ」
「まあ、たぶん、うん」
「そんな風に私のことを深く深く愛して、たとえば死後に神様から『特別な誰かを一人選びなさい』って言われたら、真っ先に私を選んでくれる人が欲しい」
目を丸くして、フカクフカク、とすみれは呪文のように復唱した。私はうなずく。
「フカクフカク。世界中で、私のことだけを選んでくれる人。そして私も、同じ質問をされたらその人だけを選ぶの」
口を動かしながら、私はこんな大げさなことを考えていたんだ、と少し驚いた。でも、言葉にしてしまえばその通りだった。このまま、誰とも深い関係を結ばずに生きて死ぬのはおそろしい。まるで真っ暗な夜の海に一人でぽーんと投げ出されるみたいだ。たった一人でも心が繫がっていると確信できる相手がいるならば、この広大でとらえどころのない生きる時間、更には想像もつかない死後の暗闇に、きらめく蜘蛛の糸のような拠り所を見いだせる気がする。おそろしい場所や孤独な場所に取り残されたとして、きっと私を迎えに来てくれるだろう、と信じられる人が、欲しい。
ひと休みをして、足がだいぶ楽になった。山道は神社から更に奥へと続いている。宿の夕飯の時刻までまだ間があったので、もう少し歩くことにした。
立ち上がって山道を再び歩き出してからも、すみれは時々考え込みながらフカクフカク、と呟いた。フカクフカク、フカクフカクか。そう、フカク、と私も相づちを打った。言動が軽やかで、いつも余裕のあるお姉さん的な雰囲気で周囲と話しているすみれが、こんな風に内にこもるのは珍しかった。自分の何気ない言葉がそうさせたのだと思えば、少し意外で、少し嬉しい。山の中へと伸びる細道を進む。途中の案内板によると山中をぐるっと回って、また町へと下りていく二キロほどの散歩道があるらしい。
神社までは木の杭で補強されていたものの、そこから先は急に道幅が狭くなった。獣道さながらの踏み固められた土の道が続く。周囲の木々は幹をぐんぐん太くして、枝葉の天井はぐんぐん高くなった。時々足を止め、なんかいいね、気持ちいいね、と笑い合う。大きくて虚ろなものにすっぽりと飲み込まれているみたいだ。どこかで川が流れている。けれど水音ばかりで、なかなかその姿が見えない。
密度の濃い緑の回廊を歩き続けるうちに、町の方向がわからなくなった。その上、分かれ道に矢印が見当たらない。片方はここだけ木の杭を打ち込んで作った階段、もう一方はそれまでと同じ獣道。
「どっちだろう」
「うーん」
悩みつつ、こちらだろうと思う方向へ進む。そんな頼りない分岐をいくつか繰り返し、ふと、自分たちが迷ったことに気がついた。
「どうしよう」
体の真ん中で不安が太鼓のように鳴り、だんだん音を強めていく。すみれは特に慌てた様子もなく、携帯電話を取りだして画面を覗いた。
「とりあえず、電波は通ってる」
「うん」
「小さい山だし、夏だし、まだお昼だし、きっと大丈夫だよ。下る方向にもうちょっと歩いてみよう。道の感じはしっかりしてるから、どこかの町には出られると思う」
「こわくないの?」
すみれは左右に首を振った。麦わら帽へ落ちた樹木の影がぬらりと動く。
「迷うのも好きよ」
私は迷うのなんか全然好きじゃない。釈然としないまま、飄々と歩き続ける白い背中を追った。
どこかで見えない川が流れ続けている。ぽたぽた、だの、さらさら、だの、明確な水音が聞こえるわけではない。ただなにか、なめらかなものが動き、近づき、遠ざかっていく絶え間ない気配だけを感じる。横の茂みか、それとも斜面の下か、もしかして地中だろうかと目線を巡らせていたら、足もとがおろそかになった。
段差の途中で湿った枯れ葉を踏んで、すべる。とっさにバランスを取ろうと浮かせた右腕を、そばの岩へと打ちつけた。
「わっ」
「どうしたの」
「す、すべった……」
半袖から剝き出しになった腕の側面がひりりと熱い。肘をたわめて覗きこむと岩肌で擦れた箇所の皮膚がささくれ、黒っぽい血をにじませていた。すみれはまるで自分が傷を負ったみたいに顔をしかめた。
「痛い。ちょっと待って」
肩にかけたトートバッグからティッシュを取りだし、ミネラルウォーターで湿らせてからちょいちょいと傷口に付着した砂や汚れをふいてくれた。
「ありがとう」
「いやー、だいじょうぶ?」
「うん、そんなに傷は深くなさそう」
腕を曲げ、伸ばし、異常がないことを確かめる。すみれは顔を曇らせたまま、私の肩をそろえた指で何度か撫でた。痛みをなだめるような仕草だった。一呼吸を置いて、また連れ立って歩き出す。
「この辺もちょっと濡れてるから気をつけて」
「うん」
「たぶんもうすぐだよ、道が広くなってきた」
うなずき、規則的に足を動かし続けるうちに、前にもこんな風にすみれのあとに続いて歩いたことがあったような、ぼんやりとした既視感に捕らわれた。私と、彼女。それ以外の私たちを包む世界は、私たちにあまりやさしくない。けれど二人であまりこわがらずに、それを辛いとも思わずに、先へ先へと進んでいく。こういうものだった、と思い出す。でも、一体なにがこういうものなのか。
言葉少なになった私を何度か振り返り、ふと、すみれは手を差し出した。私はなにも考えずにその手を取った。手は少し冷たくて、柔らかかった。爪にパールカラーのマニキュアが塗られている。すべらかな手をしっかりと握り、転ばないよう注意しながら足を繰り返し前へ進める。目の前で、花柄のワンピースのすそから覗く白いふくらはぎが、道を示す明かりのようにひらひらと光っていた。
「フカクフカク」
「なによう。子どもっぽいって言いたいの?」
「まさか。ふふ」
喉を鳴らして、すみれは楽しそうに笑う。声が明るい。
彼女の言う通り、小一時間ほどさまよい歩くうちに私たちは山から出た。辿りついたのは宿のある海辺の町ではなく、その隣の町だった。人里へ出るとほっと肩の力が抜けて、私たちはつないだ手を離した。疲れたねー、とはしゃぎながら目についたファストフード店に入り、コーラで喉を潤す。路線を調べ、バスに乗って宿がある隣町へ帰ることにした。
カバーが擦り切れたシートに座ると、糸が切れたようにすみれはうたた寝を始めた。今日一日ですっかり日に焼けた首筋が車体の振動に合わせてかくかくと揺れる。膝へのせた二つの麦わら帽も、同じタイミングで軽やかに弾んだ。
それから私には卒業まで彼氏ができず、すみれは三年の冬に「付き合うことにした」と言って遠野くんを私に紹介した。顔は確かに綺麗だけどなんだか繊細すぎる感じで、私は彼を見てもまったく触れたいとは思わなかった。こんなにもすみれと私は別の人間なんだな、と言葉には出さずに驚いた。
すみれと同じギター同好会に入っていた遠野くんは、キャンパスのそばの公園で、カラオケ代わりによくその時どきの流行歌を弾いてくれた。私たちは黙って耳を澄ませていることもあれば、歌うこともあった。お酒が入っているとよく歌った。すみれの声は高く、私の声は少し低かった。歌うのは苦手だから、と遠野くんは一度も歌わなかった。
片づけが長引いて、退勤できたのは三時半を過ぎた頃だった。 来週、楢原店長が異動でこの店からいなくなる。私の勤め先の本社はヨーロッパから酒類を輸入している会社で、このダイニングバーのように自社で輸入した商品を卸す店舗を関東圏に十数店経営している。楢原店長はこれから都内にオープンする新店舗の立ち上げに携わるらしい。
他のスタッフが帰されたあと、キッチンリーダーの国木田さんと、二人いるフロアリーダーのうちの一人である私と、もう一人の安達さんという品の良い五十代の女性が呼び出されて今後の引き継ぎをした。楢原店長と国木田さんは正社員、私と安達さんは準社員だ。楢原店長はとてもやさしく、いつでもそっと背中を支えてくれる大樹のような人だったので、いなくなってしまうのはさみしかった。
次にもいい人が来てくれるといいね、と制服を脱ぎながら更衣室で安達さんと語りあう。安達さんは、このバーのオープン当時から八年も勤め続けている古株だ。もう何人も店長が代わるのを見てきたという。歴代の中でも特に楢原店長は人当たりが良かったから、次に着任する店長はスタッフがなつきにくくて大変かもね、と苦笑いをしていた。服を着がえ、メイク崩れを直し、お疲れさまでしたと声をかけ合って退勤する。
もう帰ったかと思っていたものの、遠野くんは約束したファミレスの窓辺の席でコーヒーを飲んでいた。心ここにあらずと言った風で、気配が薄い。白磁で作った人形のように、感情の抜けた透きとおった表情をしていた。
私に気づいて顔を向け、ゆっくりと瞳に人間らしい色合いが戻る。
「お待たせ」
「うん」
「甘いもの食べていい?」
「どうぞ」
店員に抹茶アイスがのったパフェを注文した。冷やされすぎて固くなったデザートが届くのを待って、目を合わせる。
「それで、どうかしたの」
「引っ越すことにしたんだ。職場の近くにいい物件を見つけて」
遠野くんはスニーカーやバスケットシューズなどの運動靴を扱う靴のメーカーに勤めている。大学のキャンパスで背中を丸めてぶらぶらしていたり、近所の土手で昼間からビールを飲んでいたり、そんな姿ばかりを見ていた私は、未だに彼が人に頭を下げている姿をうまく想像できない。
ふうん、と相づちを打ち、まるで溶ける気配のない抹茶アイスへスプーンを突き立てた。深緑色のかけらが薄く薄くスプーンのふちに溜まっていく。遠野くんは私の手元を見たまま続けた。
「俺のところにあるすみれのものは、ぜんぶ処分する。引き取りたいものが無いか、いちおう湖谷にも立ち会って欲しい」
すうっと周囲から音が無くなった。
それで、急で悪いんだけどこのあと付き合ってくれないか。確か土曜は休みだって言ってたよな。しゃべりながら、二つの瞳がそっと私の顔を覗く。パフェの容器にそえた左手の人差し指が冷たい。
なにか言わなければいけないのに、なんにも出てこなかった。すみれが帰ってきたときに困るよ、悲しがるよ。まだわからないし、だから、だいじなものだけ段ボール箱に詰めて持っていきなよ。そんなにかんたんに捨てられるものじゃ、ないでしょう? シャボン玉みたいな、きれいな代わりにもろい思考が次々と浮かび、舌の付け根で砕けていく。ファミレスの店内は白々と明るい。それなのに目の眩むような真っ暗闇が、視界を少しずつ狭めていった。
「わ、かった」
つっかえながらも、しぼり出すように了解した。わかった。わかった。私たちはもう、三年も同じ話を繰り返してきたのだ。わかった。目を合わせずに何度かうなずくと遠野くんはもの言いたげに唇を動かし、けれど結局なにも言わずにコーヒーをすすった。私はようやく溶け始めた抹茶アイスにスプーンを差し入れる。退勤間際はあんなに甘いものが食べたかったのに、いざ口に含むと舌に広がるのは冷たさばかりで、あまり味が感じられなかった。
通路を挟んだ隣のボックス席では、大学生らしい男性の四人組がフライドポテトをつまみながら雑談をしていた。どうやら四人とも同じサークルに所属しているらしい。もっと遊べると思ってた、彼女欲しい、飲み会代高いね、始発まだかな。そんなテンポのよい会話を聞くうちに、真っ暗になった意識の片隅が引きつれるように波立った。唇の両端がじわりと持ち上がる。
私たちだってほんの数年前には、彼らと同じような会話をしていたのだ。だらりと崩れた姿勢で椅子に座り、カラオケやファミレスでじゃれ合いながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。講義かったるい、こないだすごいもん見ちゃった、ねえねえあいつがあの子に告ったらしいよ。だらだらと頭の中身を漏らし合う快感を思い出し、シャツの袖口のボタンを外す。
「ねえ、見てこれ。ひどい目に遭っちゃった」
布地を肘までたくし上げ、色濃いあざを露出させる。遠野くんはひと目見て顔をしかめた。
「痛い」
「そんなに痛くないよ」
「どうしたのそれ」
「健康診断の血液検査」
「ふーん。こんな風になっちゃうこともあるのか」
不思議そうに腕の内側を覗き込み、やがて遠野くんはそろえた指でそっとあざの表面を覆った。
「なにしてるの?」
「だってこれ、うっ血だろ? 温めたら血行がよくなって、早く消える」
「そう」
痛みをなだめるように触れる手つきが、すみれとまったく同じだった。
うつむいた視界がゆらりと歪む。湖谷? と呼びかける声が遠い。真奈、と耳になじんだすみれの声に覆われる。当てられた手がカイロのように温かい。どうしてだろう。どうして、断ち切るような明快さで流れ去ってはくれないのだろう。傷口から膿がにじみ出すように、じくりと甘い未練が湧く。どうしてもどうしても、また会いたいと願ってしまう。
抹茶アイスが完全に溶けきり、傾いたスプーンがパフェグラスの縁で音を立てるまで、私はなにも言わなかった。遠野くんはあざに片手をのせたまま、ぼんやりと、やっぱり魂の抜けたような美しい顔で白んでいく通りを眺めていた。
続きは『やがて海へと続く』本編でご覧ください。
彩瀬まる
1986年生まれ。2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR‐18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて 3・11被災鉄道からの脱出』(新潮社)を2012年に刊行。『やがて海へと届く』で第38回野間文芸新人賞候補、『くちなし』(文藝春秋)で第158回直木賞候補となる。