東日本大震災での実体験をもとに描かれた彩瀬まるさんの小説『やがて海へと届く』。
喪失と再生を描いた本書の文庫化を記念して、小説本編の一部を2回にわたってお届けします。
(全2回掲載の1回目)
彩瀬まるさんと住野よるさんの対談はこちら
1
金曜日のお昼に、血液検査をした。よりによって勤め先の健康診断の日にインフルエンザで寝込んでしまい、快復後に一人だけ近くの病院で受けることになったのだ。
針が苦手なので、血が吸い上げられる間は顔をそらしていた。刺されているときはあまり痛くなかったのに、なんの具合が悪かったのか、病院を出てしばらく経っても絆創膏を貼った傷口の熱が引かなかった。肘を曲げるたび、鈍い痛みが腕の芯へと絡みつく。
夕方、職場の更衣室で制服に着がえていると、絆創膏の白いパッドの表面まで血が染み出して固まっているのに気づいた。出血は止まったようなので、糊が付いた茶色い部分をひっ搔いて剝がしてみる。
驚いた。輪郭の冴えた赤黒いあざが、べっ、とアクリル絵の具を塗りつけたような存在感で肘の内側に浮かび上がっていた。大きさは人差し指の先を親指の関節に当てて、わっかを作ったぐらい。色合いが果物の傷んだ部分に似ていて、ついまじまじと見てしまう。自分の体にこんな不気味な色の部分ができるなんて、いったいいつ以来だろう。見なければぼんやりと痛がゆいぐらいなのに、一度見てしまうと妙に痛みの鋭さが増す。
大げさで迫力のあるあざに見とれながら、唐突に、私には体があるんだと思い出した。少し加減を間違えるだけで傷がつき、強い力がかかればだめになる、有限の。ゆうげん、なんて単語は滅多に考えない。私の暮らしだと、限りを意識するのはせいぜい食材の賞味期限くらいだ。普段考えないことは心細い。なので、突風にあおられるようにすみれに会いたくなった。
すみれ、すみれ、と叫びたい気分で丸めた絆創膏を捨て、新しいシャツを着る。髪をまとめ、黒い細めのベストを着込み、最後に扉のそばにかけられた鏡を覗いた。私は叱られた子どもみたいな口元のゆがんだ顔をしていた。けれど大人なので、なにかに当たり散らしたりはしない。
従業員用の狭いエレベーターに乗り込み、更衣室のある二階から十五階まで、足の裏に負荷を感じながら一気に上がる。私は都内のホテルの最上階にあるダイニングバーに勤めている。営業時間は夜の七時から翌日の二時まで。宿泊のお客も来るし、外からのお客も来る。
店では、カウンターの周りにスタッフが集まっていた。ミーティングが始まり、ダークカラーのスーツを隙なく着込んだ店長が連絡事項を伝える。店長は楢原さんという顔つきがヤギに似た四、五十代の穏やかな男性で、垂れ気味のやさしい目をしている。最後にスタッフ全員で挨拶とお辞儀の角度を練習し、それぞれの持ち場へ分かれた。三十分ほどで開店時間となり、店内に音楽が流される。私は他のスタッフと一緒に入り口へ並び、いらっしゃいませ、と声をそろえて開店直後にやってきたお客を迎えた。
店を開いたばかりの時間帯には二人連れの男女が多く、時間が経つにつれて同性同士や二次会らしい集団、一人のお客が増えてくる。フロア担当の私は、泳ぎを止めると窒息してしまう魚のように一晩中店内を歩き続ける。他のスタッフと目線を交わしつつ新規の客を誘導し、注文を聞き、厨房に届け、カウンターで飲み物やデザートを作り、温かい皿をテーブルへ運び、追加のお酒を注いでお会計をする。
夜が深くなり、楢原店長がさりげなく店内音楽を雨垂れのようなピアノクラシックから、アコースティックギターが鼓膜をくすぐるやらしい感じのジャズに変えた。店の空気がとろりとにごり、時間の感覚が遠ざかる。選曲一つで空間の肌触りが変わり、お客同士のしゃべり方や、集まりの親密度まで変わっていく。
時々、お客が去ったあとのテーブルを片付けて顔を上げる瞬間なんかに、この店はまるでほどよく手入れのされた水槽みたいだ、と思うことがある。ほどよく、というところが大切だ。艶やかな金魚が乱舞するアートアクアリウムのように、美しさや精密さで人を圧倒したり、吸い寄せたりする力はない。けれどほどよく水草が茂り、ほどよく水温が保たれた、たとえばそばの川からすくってきたメダカがつつがなく卵を産んで代を重ねていけるぐらいの心地よい秩序と安穏がこの店にはある。
「こう、コツとかあるんですか。選曲の」
少し注文に間が空いた隙に聞いてみると、楢原店長は心もち首を傾けた。
「コツってほどじゃないけど、僕が金曜の夜十時にホテルのバーに来るとしたら、どんな曲がいいかってのは考えるな。一緒にいるのは女か男か、仕事相手か友達か。それとも一人でぼーっとしてるのか。フロアにどういうお客が多いかざっと確認して、一番なじみの良さそうなアルバムをかける。あと、うちの店なら宿泊客が多いか、それともホテルの外から来た客が多いかも判断のポイントだね」
「なんだか難しそうですね」
「やり始めればただの習慣になる。自分の仕事じゃないから難しそうに見えるだけだよ」まあ僕も他の店長に教わったんだ、と少し照れくさそうに言って、店長はキッチンへ入っていった。私もスタッフを探すお客の目線に気づき、足音を立てずにそちらへ向かう。注文が続き、しばらくはなにも考えずに時間が過ぎた。
休憩から戻った他のスタッフに肩を叩かれて我に返る。時計は零時を回っていた。交代してフロアを抜け、名札を外して一息つく。
自販機が並ぶ休憩所のテーブルでパックの野菜ジュースを飲んでいたら、キッチンリーダーの国木田さんがやってきた。
国木田さんは体が大きい。がっしりとした首や顎、大きく鼻の張りだした精悍な顔立ちがなんとなくライオンっぽい。休憩所でもミーティング中もむっつりと黙っていることが多いので初めはとっつきにくかったが、単純に口数の少ない人なんだとわかってからは気楽に接せられるようになった。今年二十八になった私よりも、四つか五つ年上だと聞いている。
「見てくださいこれ」
シャツの袖をめくって見せると、煙草をくわえた国木田さんはテーブルに身を乗り出した。店のキッチンスタッフはみな髪を黒色のバンダナで押さえているので、まるでオールバックにしたように広めのおでこが剝き出しになっている。肘の内側を覗き込み、いまだに黒々と色の沈んだあざを見て顔をしかめた。
「すごいなこりゃ」
「でも見た目ほど痛くはないんですよ」
「血液検査か?」
「はい」
「止血がうまくいかなかったんだな」
驚かれたことに満足して袖を戻す。同時に、なんだか私いま子どもっぽいな、と思う。痛いとか、気持ちがいいとか悪いとか、子どもが起こったことを親に報告するように、自分のなかで持てあました感覚を口に出して、他の人に持ってもらおうとした。すみれとよくしていたことを、手近な誰かとなぞりたかったのかもしれない。
甘えている、と反省しながら、テーブルに重だるい右腕を伸ばした。見た目ほど痛くはないし、仕事の間は手元に集中しているのであまり意識しない。けれど大皿を重ねて運ぶときなんかに、痺れるような不快感が走る。自分の体なのに、痛いのか、痛くないのか、だんだんよくわからなくなる。生理のときの、悪寒をともなう腹痛に似ている。
すみれ、とまた脈絡なく頭の中で名前がひらめく。今日はなぜか彼女の名前が離れない。あの子なら、このあざを見てなんと言うだろう。痛い、と顔を歪める気がする。痛いのは私なのに。
紙コップのコーヒーを飲み、国木田さんが思い出したように言った。
「そう言えば、さっき店の入り口に、前に湖谷としゃべっていた男がいたぞ」
「はい?」
「ひょろっとした、目尻にほくろがあって、少し俳優みたいな雰囲気のある」
思い当たるのは一人しかいなかった。休憩時間はあと五分残っていたけれど、私はジュースを飲み干して店へ戻った。
入り口に探し人の姿はなかったため、身だしなみを整えてフロアへ向かう。客が去った後のテーブルを片付けながら薄暗い店内に目を凝らした。
カウンターの隅にひっそりと座る、スーツ姿の男の横顔が、夕方の月のように白く浮かんで見えた。
「遠野くん」
振り向いた顔は、まぎれもなく遠野敦だった。削げた頰がうっすらと青い。みずみずしく濡れた目は夜の海に似て、見ていてどこか不安になる光り方をしている。学生の頃から変わらない、翳りのある甘い顔立ち。右の目尻にぽつりと点った泣きぼくろ。ひと月前にすみれの実家で会ったときよりも、心なしか疲れているように見えた。
「どうしたの」
「うん、湖谷、ちょっと」
「仕事中だから」
探していたのに、招かれるとつい拒みたくなる。知らないうちに足をすくわれそうな雰囲気が彼にはある。遠野くんは顔をしかめるようにして少し笑い、上がり何時だっけ、と聞いた。
「三時くらい」
「向かいのファミレスで待ってる」
「わかった」
ドリップコーヒーとベークドチーズケーキを静かに味わい、かつての同級生は店を出ていった。
日射しを溜めた麦わら帽が、目の前で白く光っている。
もっと歩く? と振り返るすみれの顔は、若い。まだ大学二年生で、目鼻や頰のラインが丸みを帯びた、あどけない顔立ちをしている。彼女の動きに合わせて背中の真ん中まで伸びた黒髪がさらさらと流れる。白地に青い花がたくさん散ったワンピースとミントグリーンのスニーカーがよく似合っている。私はこめかみから汗が伝うのを感じながら、少し意地になって答えた。
「歩く」
そう、とうなずき、すみれは坂道を見上げた。舗装された細道が、点在する民家を結ぶようにうねうねと蛇行し、青々とした山の端へ吸い込まれていく。アスファルトは照り返しがきつく、長く見つめていると目が痛んだ。もう少し上ると山中の神社に着くらしい。
山を背負った海辺の温泉街は、夏休みだというのに人影がまばらだった。ほとんどの観光客は駅前のバス乗り場から近隣のテーマパークや水族館に直行するようで、駅周辺を離れると、町には地元民らしい老人や子どもしか歩いていない。
「イルカ、いいの?」
先を歩く背中へ聞く。こちらを見ないまま、すみれは首を左右に振った。麦わら帽の端から光がこぼれる。
「他のところでも見られるからいいよ」
「そっか」
なんか歩きたい、と私がここへと向かう電車の中で言ったのだ。じゃあ歩こうか、と炎天下にひるむことなく、すみれは平然とうなずいた。宿に荷物を置き、財布だけバッグに入れて町へ出た。駅前の商店でリボンのついた安っぽい麦わら帽を二つ買う。私が青いリボン、すみれが白いリボンのものを選んだ。
「歩くの好きよ」
坂の途中で足を休めながら、すみれは穏やかな声で言った。うん、と私は甘やかされた子どもの気分でうなずき、強ばった足首をくるりと回した。
旅行の少し前に、私は二ヵ月ほど付き合っていた男の子にふられた。大学の同じ学科の同級生で、新歓コンパで顔を合わせてから一年以上も片思いをしたあとに私から切り出した交際だった。
なんか、思っていたのと違って、やっぱり友だちに戻った方がいい気がする。そう弱々しい声で、小学生に英語を教えるボランティアサークルに所属している、ノートを取る横顔が凜々しくて素敵だった彼は言った。私は何度か首を振り、首を振り、けれどだんだん体の内側が砂のように乾いていくのを感じて、仕方なくうなずいた。
(第2回に続く)
彩瀬まる
1986年生まれ。2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR‐18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。自身が一人旅の途中で被災した東日本大震災時の混乱を描いたノンフィクション『暗い夜、星を数えて 3・11被災鉄道からの脱出』(新潮社)を2012年に刊行。『やがて海へと届く』で第38回野間文芸新人賞候補、『くちなし』(文藝春秋)で第158回直木賞候補となる。