2011年3月11日に起きた東日本大震災の福島原発事故後を描いたディストピア(ユートピアの対義語)小説とコメントされる『献灯使』(弊社刊、2014年10月)が、米国において最も権威のある文学賞のひとつとされる「全米図書賞」の第69回翻訳書部門(National Book Award/Translated Literature)を受賞しました。
大災厄を経て「鎖国」を決めた近未来の日本を舞台とする小説について、TVのワイドショー・情報番組でも知られるアメリカ合衆国出身の日本文学者・ロバート・キャンベルさんと作者の多和田葉子の対談を全3回にわたってお届けします。
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■これは「未来」ではない
多和田 皆様、どうもきょうは遠いところ、また近いところ、ようこそおいでいただきました。
10月30日に出たばかりの、まだインクが手につきそうな『献灯使』ですけれども、この本は、無名という男の子と、その曾おじいさんに当たる義郎が、主な登場人物になっています。無名は身体をあまり自由に動かすことができないのですが元気で、義郎もたいへん歳をとっていますが元気です。義郎だけでなく多くの老人が、100歳を過ぎてもまだ死ぬことができません。身体の弱い子供と、その面倒をみる老人、そういう2つの世代の物語です。
この小説では、日本は鎖国をしています。外来語を使ってはいけないという不思議な規則があったり、ほかにも秘密保護法のような法律があるのではないか、そんなふうににおわせる設定になっています。
長くなりましたが、初めまして、キャンベルさん。きょうはよろしくお願いします。
キャンベル こんばんは。こちらこそ、よろしくお願いします。多和田さんとは、ほんの1時間前に初めてお目にかかったばかりです。著者を前に作品について話すのは緊張しますが、初めてお目にかかるのがこういう場だったというのは、私の記憶に鮮明に残るのではないかと期待もしています。
表題作の『献灯使』は、「群像」8月号に掲載されたとき、一気に読みました。気になる部分に赤ペンで書き込みをしながら繰り返し読んでいたので、よれよれになってしまった(笑)。私は多和田さんの作品が好きで、小説もエッセイもいくつも拝読していますが、東京一円が舞台の長篇を読んだのは、今回が初めてではないかと思います。ですから、普段はドイツにいらっしゃる多和田さんと、こんなふうに東京でお会いして対談ができることは非常に嬉しいです。
多和田 たしかに、最近の作品はそうですね。『雪の練習生』や『雲をつかむ話』もドイツなどが舞台でした。でも、『犬婿入り』というのを昔書きまして、それはわたしの育った国立が舞台になっています。
キャンベル 国立は東京ではなく東京「都」です(笑)。
多和田 そうでしたか(笑)。
キャンベル 義郎と無名も「東京の西域」にある仮設住宅に住んでいますね。東京という都市空間を表現する方法として、東京を拠点として長いこと暮らしている人であれば、東京特有の固有性や求心力を、ぐっと押し出して描くと思います。もしくは、サイエンスフィクションのように、普通に読んでいてはなかなか気づかないレベルまでデフォルメをするかもしれない。しかし『献灯使』は、どちらの方法もとっていないんですね。新宿や成田空港といった固有名詞は出て来るものの、私たちが識別できるような風景は全く描かれない。具体的でありながら、不気味なほどに特定しづらい。それが、この小説の基本的な情景です。
また、無名をはじめとする子供たちは、どういう状況で歩行にも難儀するような身体になってしまったのか。100歳を超える老人が健康で、死ぬこともできないのは何故なのか。日本はどのような歴史的背景でもって鎖国に至ったのか。外来語を大っぴらに使うのはどんな法に触れて、どう処罰されるのか。多和田さんは先ほど「におわせる」という言い方をされましたが、まさにおっしゃるとおりで、不可思議な設定の根本にあるものは最後まで明らかにされません。無名と義郎が暮らす東京西域の様子がたいへん精緻に構築されていることと比べると、日本の現状やそれに至る経緯は、まるで霧に包まれたように不可解です。
私は最初、土が汚染されているんじゃないだろうかと考え、この小説は3・11と原発事故を経た日本の未来図ではないかと思ったんですね。もしくは、第3次世界大戦のような何か大きな戦争を経験した世界なのか、とか。けれど作中に、震災や原発、戦争という単語は、全く姿を現しません。すべて私たちの頭の10センチぐらい上にぶら下げたままにして、多和田さんは筆を置いたんだなという印象があるんですが、そこにはどんな思いがあったのでしょうか。
多和田 そうですね。私としてはもちろん原発事故のことを頭から追い出すことはできません。今再稼働したらその後の日本はこうなるのではないかということは考えました。でも、原発は自然破壊の山頂みたいなもので山全体はもっと大きいし、また自然だけでなく人間も破壊されていると思います。例えば作中、町は機能しているのに人間が全くいなくなった都心の光景が出てきます。これは、いまの東京を見ていて、私が時々感じることでもあるんです。みんな無理して細かい規則に従って動いているんで、すべてがちゃんと機能しているように見える。でも、そのせいで、これだけたくさん人間が住んでいるのに誰もいないような感触もある。ベルリンだったら、家のない人とか、通りでたむろする無職の若者とか、電車のストライキとか、機能しない部分がはっきり目に見えるので、かえって安心です。人間は機能するために存在するわけじゃないと思うので。でも、東京は負の部分が隠れている。だから、信号も動いているし、車も走っているし、お店もちゃんと営業しているけれど、なんだか無人のような気がすることがあって、それを見ているので、人のいなくなった新宿を想像するのはそれほど難しくなかったんです。
原発事故は1度大きな事故が起こってしまった、というよりは、何10年もの間、積み重ねてきたいろいろな間違いが一気に噴火した感じでした。今現在はまず原発を再稼働させないことが何より大切ですが、それ以外にも困ったことがいろいろあると思います。金儲けのためなら人が死んでも仕方ないという考え方そのものをどうにかしないと、多分ひどいことになってしまう。
放射能については、子供のほうが細胞分裂が速いので、被曝した場合に老人と比べて大変な病気にかかる危険が大きいと言われてますね。無名も含めて子供たちは自分で歩くことさえできないんですが、義郎たち老人は、これまでの体力を保つことに成功している、というか、そうするしかない状況にあります。それどころか年寄りは放射能に当たると死ななくなる、という設定になっています。もっと正確に言えば、本当にそうなのかは誰にもまだ最終的にはわからないという設定ですけれど。「日本がこんな状態では死ぬに死ねない」と言っている方がいて、それを聞いたとき、「死ねない」という発想は深刻だけれど面白いなと思ったんです。
実際、日本は寿命がどんどん延びてきましたよね。その一方、若者の数は減少の一途で、体力も落ちてきている。ですから元気な年寄りが日本社会を支えていかざるを得ない。そういう社会構造はすでにあるわけで、そういう意味でも『献灯使』は未来小説じゃないんです。
キャンベル 未来小説じゃないというところに、私はとても惹かれています。機能としての人間という言葉がありましたが、視点人物のひとりである義郎は、それとは真逆のとても泥臭い男ですね。彼は曾孫の無名に対して、守ってやりたい、いろいろな経験をさせてやりたいと強く思っており、無名の両親でも祖父母でもなく、さらに上の世代の自分が曾孫の面倒を見ることを是認しています。けれど、物語の終盤、無名を学校に送り届けた帰り道で、突然たいへんな怒りを抱くんですね。「孫のことは娘に任せて、曾孫のことは孫に任せて、あの空の向こうに飛んで行ってしまえたらどんなにいいだろう。」
この怒りは無名や家族に向けられたものではなく、彼らが生きる社会、状況に向けられています。「野原でピクニックしたいって、曾孫はいつも言っていたんだよ。そんなささやかな夢さえ叶えてやれないのは、誰のせいだ、何のせいだ、汚染されているんだよ、野の草は。どうするつもりなんだ」。
曖昧模糊とした不穏さ漂う世界で、唯一この義郎という老人が真正直に生きている。曾孫への情熱や、社会への怒りといった生々しさが、逆に小説の中で光っているように感じます。
義郎は主要登場人物の中で一番の年長者ですから、時間の流れに意識的です。木の年輪を思い浮かべて、死ねない自分の身体には、どんなふうに時間が保存されているのか、と考える。死ねないという苦しみは、作中ところどころで描かれています。例えば、近所の絵はがき屋で買い物をするシーン。「絵はがきならば、書き始める前から終止符が思い浮かぶほど書く場所が狭い。終わりが見えていると、かえって安心する。医学の最終目的は決して死なない永遠の身体をつくることだと子供の頃は思い込んでいたが、死ねないことの苦痛については考えてみたことがなかった」。これを読んで、私は正岡子規の『病牀六尺』を思い出したんです。新聞連載をもう100回分書いたけれど、原稿を送るための封筒がまだ200枚も残っていることに重圧を感じる、と子規はいうんですね。死ぬことのできる子規ですらうんざりするのに、義郎に至っては不死なわけです。「『切手千枚』を特別価格で売っていることもあるが義郎はそれを見ると、1,000枚も絵はがきを書いてもまだ死ねないことを思い知らされるようで買う気になれない」というのにも納得です。
多和田 これは昔からそうですが、いつ死ぬかは誰にもわからないんですね。最近はそれに加えて、できるだけ若さを保つことが人生の目的みたいな考え方さえある。ですから私たちは、どういうふうに歳をとっていけばいいのか、オリエンテーションに苦心しながら、日々を過ごしているわけです。現代医学も年のとり方は教えてくれません。この小説に出てくるような死ねない老人は、私たち以上に人生の区切りに苦労することになると思うんです。
作家は、作品を書き終えるごとに、ひとつの時間が過ぎたんだなという実感があって、これが人生の区切り目になることもあります。でも、作家でなくとも、紙に書くという行為は、区切りをつけやすいと思うんです。手紙やはがきは1枚、2枚と数えられますし。切手も同じで、使えば使うだけ減っていく。それから『献灯使』の世界では、インターネットがなくなっているので、1度死滅した新聞文化も復活しています。
キャンベル インターネットがなくなった日を祝う「御婦裸淫の日」がありますね。漢字がとても面白い(笑)。
多和田 そうです(笑)。インターネットがなくなって、紙の文化に戻っています。
キャンベル 子供の健康状態に関するデータも、すべて手書きなんですよね。
多和田 手書きのほうが、商業利用、あるいは政府に盗用されたり改竄されたりしづらい、絶対安全だという方向に、セキュリティーが発展したんです。だから医師たちは、手書きのカルテを犬小屋の奥や大型煮込み鍋の中に隠している。
(続く)
(2014年11月5日、オトノハカフェにて行われた『献灯使』プレスイベントを収録しました)