「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」
「日本人では『全員一致、一人の反対者もない』ということが、当然のこととして決議の正当性を保証するものとされている」
「日本人は空気でものごとを決めてしまう」
いまでは誰もが口にする言葉ですが、これらを最初に日本人に向けて発したのが山本七平(イザヤ・ベンダサン)でした。さらには日本人は無宗教だという通念に挑む(?)かのように「日本人の宗教は日本教だ」という問題提起をしたことでも知られています。
ではこれらの問題は解消したのでしょうか。「安全」や「水」が無料だと思う人はいないと思います。それどころか「安全」の名の下に防衛費(軍事費)は増え続けています。兵器が高額化し続け、その新しい兵器を運用するための費用を考えるとこのままでは防衛費がふくれあがり続けることは明白です。また「水」についてもすでに商品として売られ、また水道の民営化の動きもあり、「水」が無料であることは昔話になりかかっています。もっとも水道の民営化に走ったパリは水道事業企業の営利化の悪影響が出て再公営化となりました。
では「空気」はどうでしょうか。この「空気」のは色濃く残っています。昨今の“忖度”も、自分の栄達等の私益だけなく、「空気」の支配によるところもあるように思います。では「空気」は悪なのでしょうか?
いまも「あの人はKYだから、空気がよめなくてこまる」とか「その場の空気を読めないのは大人ではない」などともいわれる。これは何かを言うさいに空気を察知するのが当然で、察知できないやつは欠陥人間だという意味なのだ。つまり、空気は「良いこと」と理解されている。これはどうしたことだろうか。
もちろん山本七平も単純に「『空気』には反対すればいい」とか「『空気』に反対する人が正しい」というようにいっているわけではありません。
ではなぜ日本では「空気」というものを重くみるようになっているのでしょうか。そこには日本人の独特の倫理観が影を落としています。この本で中村元氏の著書『日本人の思惟方法』の1節が引用されています。
日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。諸事象の存する現象世界をそのまま絶対者と見なし、現象をはなれた境地に絶対者を認めようとする立場を拒否するにいたる傾きがある。
このような傾向には日本人の心性に潜むアニミズム的な感性があるからです。アニミズム的な感性では「世界を自分と同類のものとして肯定的に見るため、同情的な気持ちが優先し」「目の前のあらゆる現象を肯定的に受け入れて」てしまいがちです。逆にいえばこの世界ではキリスト教的な「堅固な一神教的論理および倫理を形成できない」傾向があるのです。
日本では倫理は「情況倫理」としてあらわれがちなのです。
情況に合わせて「正しさ」を求めていっても、実は、それが倫理という名に値する規範になりえないことは自明だろう。この倫理観はむしろ自分たちの仲間や味方との同一感を高めるために発動される。それなのに、日本人はしばしば「正しさ」の根拠を移動させて、そのことに深刻な倫理崩壊を感じることなく過ごしてきた。
「空気」の背後にある共同性への信頼が一概に悪いものとはいえませんが、自分の属している共同体が無条件に“正しい”という保証はどこにもありません。もちろん“正しさ”は「満場一致」がその保証にはなりません。
日本では、「全員一致、一人の反対者もない」ということが、当然のこととして決議の正当性を保証するものとされている。時には、多少の異議があっても、「全員一致」の形を無理にもとる。もっと極端な場合には、明らかに全員ではないのに、全員の如くに強弁する。
これは戦前日本の大政翼賛会、軍部、政府等の姿を考えてみればわかります。「満場一致」は少しも真理や正義を保障するものではありません。ベンダサン(山本七平)がいうようにむしろ満場一致は「偏見に基づく」、あるいは「興奮に基づく」ゆえに無効と考えることのほうがいいのではないでしょうか。
もう1つ重要な指摘があります。それは日本に蔓延している「空体語」というものです。「実体語」と対比するとわかりやすいのですがこう解説されています。
大雑把にいえば、甘い見通しが裏切られ、現実のほうがどんどん重くなってしまうと、その分のバランスをとるために、非現実的な言葉だけが膨らんでいくという現象である。これはいまでも私たちがいたるところで体験している。
戦中でいえば敗色濃厚になるにつれて、その事実を受けとめられず(あるいはその事実を認めず)に叫ばれた「一億玉砕」が「空体語」にあたります。為政者(支配者)が失政を糊塗する場合にも使われます。もし山本七平が今の日本を見たら声高にいわれる「構造改革」や「改憲」なども「空体語」だとみるのではないでしょうか。この「空体語を膨張させることで何かをしなくてはならないという『空気』は生み出される」のです。
この本で「空気」から抜け出す方法として「水を差す」ということが語られています。
蔓延しつつある肯定的な「空気」に対して「水」を差すことによって批判的な気持ちを生みだし、現実に引き戻されるというのである。
「水」とは「通常性」のことを指しています。ですが「水を差す」といっても「情況倫理」の日本では「『水』も『空気』に転じてしまう」こともありえます。山本が単純に“空気悪玉論”ではないことがここにもうかがえます。
今の日本で「空気」はどうなっているのでしょうか。
戦前の愚行を生みだしたとされる「空気」の支配は、戦後のわれわれをも同じように、あるいはよりいっそう強く拘束している。
戦前の軍部よりもむしろソフトに感じてしまう「KY」と呼ばれる今のほうが「空気」はより身近に、しかしより強力な力を得ているように思えます。「空気」に従えば“利益”も得られるし、自分の“安全・安定”や“正当性”を保証してくれる、そう思う人が増えているような気がします。
強くなった「空気」の支配力は、逆にいえばなにかの「空気を醸成」できれば人々を従わせやすくなるということになります。このところかまびすしくなった改憲論議にもそれがうかがえます。改憲という空気を醸成すれば、人々はいつの間にか“改憲”自体は間違っていないように思ってしまいます。「空気」に無批判に巻き込まれることで本当は自分の足元を見失っていることもあるのです。
「水」を差しながら、「空気」に取り込まれることがないことが重要です。もちろんその「水」が新たな「空気」を生みださないように心しなければなりません。少なくとも山本七平の著者はそのようになりがちな日本人に警鐘を鳴らしているのです。山本七平は今こそ読まれるべきであり、本書は山本七平への畏敬の念にあふれた優れた入門書だと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。 note⇒https://note.mu/nonakayukihiro