「立場」と「空気」というものが日本人にとって無言の圧力となっていることはよく知られていると思います。とはいってもその弊害がなくなったわけではありません。長いものには巻かれろや、(ほかにないから)しかたがない、という言動は付和雷同や自己喪失につながります。それどころか他者へむかっては圧力(権力・権威への盲信、服従を強いること)になります。
この本は日本人の“宿痾”になっている「空気」というものを日本語の特性から解き明かしたものです。なによりも注目すべきは「空気」のすべてが問題になるわけではないということです。
──少なくとも、一対一の関係においては、会話の中に空気が入り込むのは避けられないのだろう。いや、もっと言えば空気がなくてはならないのである。ここでは、仮に、三人以上の場における空気のことを「場の空気」、一対一の会話における空気を「関係の空気」と呼んで区別することにしよう。そして、非常におおざっぱであるが、「場の空気」には問題があり、「関係の空気」はむしろ必要なもの、という仮説を持ちながら論を進めてみたい。──
この「仮説」をひとつひとつ確かめていったのがこの本です。論の進め方は卓見に満ちたもので読むもの誰をも唸らせると思います。
「場の空気」「関係の空気」といっても、その「空気」の出自が異なるわけではありません。それらは日本語の特性から生まれてきています。
日本語でのコミュニケーションの特性に単語を省略するという傾向があることに冷泉さんは着目します。
──人と人が一対一で向かいあうときには、双方既知の情報はむしろ「言葉に出さず」言語外のコミュニケーションに委ねることで、かえって既知の情報を共有しているという実感は強くなる。このような省略表現や婉曲表現の使用、敬語や俗語の表現を使うことによるお互いの関係の確認、さらには比喩や略語、ニックネームなどの内輪の暗号による仲間意識の確認など、言語表現とその周囲には、明らかに「空気」が存在した。──
しかもこの「関係の空気が濃いこと」は「関係が良好である」ことをあらわしています。意思の疎通がはかられている、ということになるからです。ジャーゴン(隠語)や業界用語、符丁を共有することが仲間意識(共同体の一員であるという感覚)をもたらしているのです。それは親和感をもたらすことがあり、コミュニケーションを円滑、ときには洒脱に感じさせることにもなります。
──だが、三人以上が集まった「場」での「空気」となると話が違ってくる。(略)この「空気」つまり「場の空気」は、日本社会を蝕む妖怪に化けてしまうのである。──
なぜか……。
同じ「婉曲表現」「略語、造語」等を使っていても、そこに「権力」が発生するからです。「婉曲表現」「略語、造語」等で作られる「暗号化」の問題が「権力」へと繋がっていくのです。
──集団の中では「暗号が復元できた人間」と「できない人間」の間には決定的な溝ができてしまうのです。(略)何だかわからなかった人間は、わざわざ「暗号化」して話した話者の期待する「話し手と聞き手の間に生まれる親近感」から完全に疎外されてしまうのである。この「わからなかった疎外感」のいっぽうで、話し手と分かったほうの聞き手の側には「わからないヤツのいる不快感」が生まれる。その結果として、全体的には「わからないといけない」という強迫観念、さらには「それが正しい」という強制と「反対するヤツは許さない」という攻撃性まで備えた「空気」が醸成されることになる。──
「暗号化」による「場の空気の権力化」についてはこのような特徴が見られます。
1.意味の単純化。
2.対等性の喪失:話し手と聞き手の間の対等な関係が失われる。
3.省略表現、比喩などの私的なレトリックを公的な空間に持ち込む。
──元来は一対一の「関係の空気」を前提とした、バラエティーに富む日本語表現が、三人以上の場にどんどん進出しているのである。コードスイッチ。タメ口。ダジャレ。比喩。省略やなぞかけ。スローガンや隠語、略語。こうした「私の日本語」が公共の場にどんどんあふれ出てきている。その結果として、元来は価値観の異なる人間、利害の異なる人間が共存する場であるはずの「公共の場」が「私的な空気」に汚染されてしまっているのだ。──
「対等性の喪失」、さらに私的な言語で公共空間を満たすというのは“独裁者”の振る舞いそのものです。
では、一対一の関係では「ニュアンスに富んだコミュニケーションが可能な」日本語の特性をいかしながら、「場の空気化=権力化」をさせないためにはどのようにすればいいのでしょうか。
冷泉さんは5つの提言をあげています。
1.聞き手への配慮:ちゃんと語る。
2.対等性を取り戻す:敬語とは話し手と聞き手の対等性を持った言葉で、「タメ口」とはむき出しの権力関係を持ち込んだ不平等な言語空間を作り出す。
3.教育現場では「です、ます」のコミュニケーションを教える:その上で「権力や親疎感情をむき出しにしやすい「だ、である」の使用を制限する。
4.ビジネス社会の日本語の見直し:会社や官庁の組織内でも「上から下」への「です、ます」を普及させる。
5.「美しい日本語」探しを止める:「良い日本語」「カッコいい日本語」を探す。「カッコいい日本語」とは「伝わり方がカッコいい」ということです。
これらは、この本のなかで具体的な会話例、つまり「生きものとしての言葉」の姿を追いながら提言されています。
──かけがえのない一対一のコミュニケーションにおいて、「関係の空気」が欠乏してはいないか。異なる立場の人間が集まった公共の空間において、「場の空気」が全体を振り回していないか。──
これらを追求した個所は日本語のコミュニケーションの優れた例となっています。
「場の空気」の支配から脱すること、それは自分たちを誤野らせらないための大前提です。
この「空気」というものはさらなる猛威を振るっています。
──拉致問題や対中国、対韓国の問題でも「空気」は猛威を振るった。イラク人質事件の際の「自己責任」という言葉も空気のように伝染していったし、伝染といえばSARS騒動の猛威と健忘症も空気の仕業という側面が大きい。そんな中、恐ろしいことに「空気」に別名がつくことにもなったのである。それは「国民感情」というもので、「靖国問題に対して外国から干渉されてされて参拝を止めるのは国民感情に照らして云々」であるとか、「米国産牛肉の輸入再開は国民感情を考えると時期尚早」など、今や「空気」が国家の最高権力を握ったというお墨付きを得ている観すらある。──
「良い日本語」「カッコいい日本語」を使うことで、このような「空気の支配」から脱することが今求められているのだと思います。日本語の言語空間から「空気」の正体を追ったこの本にはたくさんの知見があります。「場の空気」が全体を振り回し、欠乏している「関係の空気」のため日本語は「窒息」状態にあります。その回復は急務なのだと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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