森さんはオウムの信徒たちの姿を追ったドキュメンタリー映画『A』『A2』や放送禁止歌をあつかったテレビドキュメント『放送禁止歌』(後に書籍化)などの作品で知られる映像作家・ジャーナリストです。森さんが折に触れ発表したものをまとめたこの本は、いたるところに森さんのいきいきとした柔軟な思考の姿がうかがえます。
この本は森さんのささやかな(静かな)宣言から始まります。
「僕はKY(空気読めない)なのだ」
これは“同調圧力”に従わないということです。山本七平さんの『「空気」の研究』を嚆矢(こうし)として以来、日本人が“空気”や“世間”と呼ばれるものに弱く、その場の状況、雰囲気に流されやすいことはよく知られるようになってきました。といっても“知られて”いるだけで、実際は“状況”に従って(呑みこまれて、あるいは、おもねって)いること、人のほうが多いのではないでしょうか。。
“同調圧力”はしばしば“善意”や“常識”の仮面を被ってもいます。
──オウム信者を被写体にしたドキュメンタリー番組を撮影中に、オウムを絶対悪として強調することを要請され、これを拒絶したために、僕はそれまで帰属していたテレビ・メディアから弾きだされた。──
ここで森さんがぶつかったのが“空気の壁”です。自主制作ドキュメンタリーとして完成した後にも次のようなことがあったそうです。
──CS局のひとつが『A』を放送したいと依頼してきたので即答でOKしたが、予想どおり放送直前に中止となった。理由は報道局長だか部長だかが、「こんな作品を放送などしたら大変なことになる」と中止を命令したからだという。ただしこの局長だか部長だかは、例によって作品を観ていない。依頼してきた担当者がそう教えてくれた。──
『A』だけではありません。他の作品(企画)でも同じようなことがあったそうです。これは“判断停止・思考停止”というものです。周囲の反応をなによりも気にした判断、それがどれほど根拠のあるものかを疑わずに“空気”として従った姿があるばかりです。森さんの『放送禁止歌』では、だれも禁止を決定したことがないにもかかわらず、思い込みが先行して禁止楽曲が定めらたというグロテスクな実態が描かれていました。これでは少しも真実を求めていることにはなりません。自己保身や事なかれ主義があるばかりになってしまいます。
ここで必要なのが“視点をずらす思考術”というものです。といっても森さんは大上段に構えて提唱しているわけではありません。
“視点をずらす思考術”とはなにより世界が「多層的である」ことを知り、感じ、考えるためのものです。
──視点をずらそう。この世界は無限に多次元的なのだ。事件や物事や現象は、決して単面ではない。多層的で多面的だ。視点をずらしさえすれば、まるで鉱物の結晶のように、新しい明度や色彩があなたの前に現れる。──
あらゆる既成概念や“空気”が押しつけてくるもの、それは往々にして権力からやってくるものですが、それらに惑わされないためにこの思考術は必要なものです。
私たちは気がつかないうちになにかの先入観や他者の判断を受け入れ、世界をのっぺらぼうのようにみているのではないでしょうか。
──国家はフィクションだ。ベネディクト・アンダーソン言うところの想像の共同体。国境という線が自然にあるわけではない。(略)国家とは、あくまでも人為的に作られるもの。だからこれを成立させ持続させるためには、民族や宗教や言語など、構成員すべてに共通する属性を掲げることが最も手っ取り早い。でもこれも厳密にはフェイクだ。民族や宗教や言語が完璧に一枚岩の国家など存在しない。──
愛国心について触れられた文章の中の1節です。といっても愛国心が虚妄だということだけをいっているだけではありません。次の文にこそ森さんの本領・真髄があります。
──(国を)愛するか愛さないかはあなたの自由。ファンタジーで虚構であるからこそ愛(いと)おしいという心情は僕にもわかる。それにもしも僕が愛さないからといって、愛するあなたに愛さないことを強要するつもりはない。だからお願いだ。愛することを強要しないでくれ。というか、愛することを強要などできないはずだ。──
これが“視点をずらす思考術”でみえてくるものです。
──善意が人を殺す。正義が人を加害する。そして「優しさ」が人を傷つける。──
「多層性」を失った、のっぺらぼうな世界はどのような美辞麗句、正義や道徳のお仕着せがあっても痩せた貧しいものでしかありません。「多層性」は豊かさのあらわれです。それを失わないためにも“視点をずらす思考術”が必要なのだと思います。ブッシュの戦争もはじめは声高な正義の声で始められました。それだけではありません。戦争はいつも「正義」「正当」「やむをえない」「自存自衛」のかけ声で始ったことを歴史が教えてくれています。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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