世界で一番発行部数の多い本は『聖書』ということは有名ですが、ミッションスクール出身者以外で聖書を読んだことがある日本人は、かなり少ないのではないでしょうか?
海外では、教会自体が観光名所で宗教絵画も多いので、私も一度は聖書を読んでみたいと思っていたのですが、聖書の言葉を引用した本ですら難しそうで、なかなか手を出せずにいました。
しかし、この本は、100の名言を選び、1つの言葉につき1ページの解釈をつけているので、一般読者にもわかりやすく、現代の人間関係や仕事に生かせる聖書の知恵を知ることができます。
イエス・キリストは、紀元30年に十字架に掛けられて死に、その後、復活しますが、「わたしはすぐに来る」と言って、再び天に昇っていきました。
1世紀末になっても再臨する兆候がなかったため、次世代のためにイエスのことを書き残そうとして書かれたものが、聖書の元になったということです。
その聖書の1節で、私が間違った解釈をしていたと気づかされた言葉は、こちら。
──目には目を、歯には歯を──は、悪人に対しては、同じレベルで対抗せよ!という意味なのかと思っていたら、被害者は加害者に対し過剰な報復をしてしまうので、それを防ぐために使われた言葉だというのです。
これは、古代バビロニア帝国で実施されていた規定で、後にユダヤ教も継承したのですが、これに対しキリスト教は、復讐を全面的に禁止している宗教だといいます。「悪人と同じレベルで復讐をするならば、悪に屈することになるから」だというのです。
だから聖書では、
──だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい──
と説きます。
これもよく聞く言葉ですが、やられっ放しじゃ、益々、相手が助長するし、右頬を打たれたことすら納得いかないのに、なぜ左も?と思いますよね。しかし、これは復讐の権利を放棄することによって、悪を克服することができるという意味だそうです。正直、私は納得がいきませんが、この言葉には心が動きました。
キリスト教では、復讐は人間が行うことではなく、神が行うことだというのです。確かに復讐することでかえって怒りや憎しみが増し、深く傷つくことだってありますからね。ネガティブな感情は早く手放した方が、利口なのかもしれません。
元々、キリスト教はユダヤ教から派生したものなのですが、両者の教えには違いがあります。最近、巷にあふれる不倫についての違いは、非常に興味深かったです。
キリストが生きていた時代のユダヤ教では、姦淫(かんいん)を犯した男女は死刑と定められていました。
しかし、相手が独身女性、未成年者、非ユダヤ教徒であれば罪に問われなかったというのです。それは、婚姻している女性は夫の所有物だから。
おいおい、そんな男にだけ有利な逃げ道って……と思いますよね。そこでイエスは、男性中心の考え方を脱するため、このように説いているそうです。
──情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。──
姦淫は、第三者が断罪することはできない。姦淫は最初に心の中で起きることなので、自分の心を基準にして、自分自身と同じように、他人の結婚生活を尊重しなければならない、と。
配偶者以外に淫らな空想をすることすらいけないとは厳しいですが、心の中で生まれる罪に関して、男女の差はないわけです。
では、人を赦(ゆる)すという考え方の違いはどうかというと、ユダヤ教では「神は同じ罪を3回まで赦(ゆる)してくれる」というのです。
しかし、イエス・キリストは「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われたそうです。
新約聖書の時代の「7」は、最もよいことや完全を意味する数字であり、70倍というのは、無限大という意味と等しいそうです。つまり「無限に」赦すということです。
自らが真に悔いて改めるならば、必ず救われるのだと、それまでのユダヤ教の常識を逆転しているのです。
これを不倫にあてはめたら、たまったもんじゃないなと思うのですが、神を前にして、キリスト教徒としてどう生きるかは、自分の心が決めることなのでしょう。
著者曰く、「聖書の言葉には、いくら考えてもわからないものがある」と言います。そして、「そういうときはわかったふりをせず、考え続ける姿勢が大事」なのだそうです。
また、キリスト教は徹底した「性悪説」だといいます。アダムとイヴが禁断の実を食べ、神の命に背いたときから、人間は生まれながらにして原罪を負っているというのです。そして、人間が死ねば、肉体だけでなく魂も滅びる。
しかし、終わりの日に再臨したキリストが、死者の肉体と魂をも復活させ、「最後の審判」によって選ばれると、「永遠の命」を得て「神の国」で暮らすことができるというのです。苦難と悲劇を正面から受け止めて、一生懸命に生きている人であれば、イエス・キリストは「最後の審判」で必ず救ってくださると。
そういう希望を持っているから、他人の評価や世間の価値観に振り回されずに生きられるし、現実の苦難に耐えることができるのだそうです。
著者自身も、同志社大学大学院神学研究科出身の元外務省の外交官でありながら、鈴木宗男事件に巻き込まれて逮捕。512日もの間、東京拘置所の独房に拘束される経験をしました。そのとき心の支えになったのが、聖書の言葉だったそうです。
最後に、キリスト教徒ではない私でも、これは日常生活の中で使えるなと思った言葉をひとつ。
──憤ったままで、日が暮れるようであってはならない──
これは、絶対に怒るなということではなく、「夜は悪が支配する時間だから、夜まで怒りを持ち越してはいけない」という意味だそうです。
確かに、夜に考えると頭に血が上って、冷静な判断ができなくなりますからね。余計なことは考えずにさっさと寝ろ!ということだと私は解釈しました。それ以来、非常に寝つきがいいです。
恐らく、自分が置かれている立場や心の状態、年齢によっても、この本の受け止め方が違ってくるのではないでしょうか? そういった意味でも聖書の言葉は、何度も何度も繰り返し読むことができる心の常備薬なのかもしれません。
レビュアー
「関口宏の東京フレンドパーク2」「王様のブランチ」など、バラエティ、ドキュメンタリー、情報番組など多数の番組に放送作家として携わり、ライターとしても雑誌等に執筆。今までにインタビューした有名人は1500人以上。また、京都造形芸術大学非常勤講師として「脚本制作」「ストーリー制作」を担当。東京都千代田区、豊島区、埼玉県志木市主催「小説講座」「コラム講座」講師。雑誌『公募ガイド』「超初心者向け小説講座」(通信教育)講師。現在も、九段生涯学習館で小説サークルを主宰。
公式HPはこちら⇒www.jplanet.jp