名言とはとても便利なものである。ちょっとした文章に使ってもいいし、スピーチで引用してもいい。それだけで論全体にハクがつくし、なにより論者が知的に見える。話のマクラとして使うなら、こんなに便利なものはそうそうないのだ。
ただし、注意しなければならないことがひとつ。その名言を語った人が、じゅうぶんに有名でなければならない。誰もが、あああの人ね、とわかる人でなければ、期待する効果は得られないのだ。
じつは最近、本書とは別に、ある名言集に接する機会があった。「愛情」と「尊敬」について考察したものを見つけ、なるほどなあとたいへんに感心した。バルタサル・グラシアンの言葉だそうである。恥ずかしながら誰だかわかんなかったから調べてみた。なるほどこういう人か。
とてもいい言葉だけど、話のマクラには使えないなあと思った。だって、グラシアンさん、誰だかわかんないんだもん。
もうひとつ、いい言葉なのに使えないものがある。
映画化もされた傑作マンガ『四月は君の嘘』でヒロインの女子高生が名言として引用するのは、スヌーピーの言葉だった。
スヌーピー……『PEANUTS』の作者シュルツさんがたいへんな苦労人なのは知っているし、あの世界は基本的に大人が出てこない子供だけの世界であり、それゆえキャラクターたちがきわめて知的・哲学的なことを話していることも知っている。したがって、中には名言と呼べるものもたくさんある……のだが、だからって話のマクラには使えない。女子高生ならいいだろうけどさ、オッサンには無理だよぉ。
この2つの例で明確にわかることは、名言を引用するなら、「誰の言葉か」がとても重要だってことだ。所詮はマクラだから、本論と矛盾してさえいなければ内容はどうだってかまわない。気をつけなければならないのは、それが誰の発言かということだけだ。あまり無名な人はお呼びでないし、論者のキャラと合わないのもよろしくない。
おあつらえむきなことに、世の名言集はたいがい、話のマクラになるようなものを選んで編集してある。誰もが知っている有名人の、誰にも通じる名言を集めて1冊にしているものがほとんどなのだ。たぶん、ウェブにも似たようなサイトがあるだろう。
ああそれから、マクラ派の人に耳よりな情報をひとつ。ゲーテという人はたいへん便利な人で、「ゲーテいわく」という文言の後になにか適当な言葉を続けると、たいがいそれに当たるようなことを言い残しているんだそうだ。マクラが欲しいなら、ゲーテだけ狙ってくって手もアリだね。(おお、なんて役に立つブックレビューだろう!)
さて、本書『知の百家言』である。
古今東西の詩人・哲人の言葉が掲げられ、その言葉にたいして著者の中村雄二郎さんの解説が付してある。もともと朝日新聞に連載されていたものを1冊にしたものだから、解説が不必要に長くなることもなく、平易であることを意図して執筆されている。その意味では、たいへん優れた名言集であることは間違いない。
ところが、ね。
ここに出てる名言は、絶対にマクラにならないのだ。
引用してみよう。
──あなたは、子羊がただたんに微温(ぬる)きものよりも冷ややかなるものを好んでいることに驚かれたのですな。──(ドストエフスキー)
──われわれがなんらかの秘密を持ち、不可能な何ものかに対して予感を持つのは、大切なことである。──(ユング)
──私は灯火の明るさに惹きつけられる蛾であった。私は輝く栄光を口で見ているのか、あるいは眼で見ているのか。──(ファーブル)
これ以上ないほど有名な人の言葉である。マクラにするならまさに適当な人材だ。にもかかわらず、これ、何を言いたいのかさっぱりわかんないのだ。こんなもんマクラに使えるかよ。
本書はそんな言葉ばかり選んである。
著者である中村さんの解説を読んで、なるほどそれでこの言葉を選択したのか、ということがはじめてわかる。要は、本文と一体になって名言が意味を持つようなしくみになっているのだ。名言は本文とともに、その思想家の思想の核心をコンパクトに表現する。
むろん、新聞連載の限られた文字数ではとうてい語りつくせないことも多い。そのときは、さわりだけ書いておくから、原典に当たるなり、(中村さんの著書をふくめた)本を読むなりして勉強してね、というメッセージが隠されている。そうハッキリ記してはいないが、そうとしか取れないものは数多くある。
本書に収録された名言は、話のマクラになるようなものはない。しかし、大いなる知(著者の言葉を借りれば、人類の英知)への扉となるものが選ばれている。おそらく、その扉を開いてもらうことこそが、著者が真に意図したところなのだろう。
その扉は、間違いなくそこにある。誰でも開けられる場所にある。だが、たいがいの人──マクラ派の人は、そのことに気づかずに死んでいく。中村さんはきっと、それが悲しくて仕方ないのだろう。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。