今日のおすすめ

PICK UP

2017.06.21

レビュー

【格差に無自覚な人へ】社会的弱者への優越感で、自分を「正当化」していないか?

1.教育課程からの排除:家庭環境(貧困)やいじめにより、中卒あるいは高校中退で社会に出なければならず、そのため不安定な生活・仕事を強いられる。
2.企業福祉からの排除:非正規雇用の人の労働環境の劣悪。
3.家族福祉からの排除:貧困により家族間の相互扶助ができない。
4.公的福祉からの排除:生活保護受給が受けにくい(承認されにくい)。
5.自分自身からの排除:自分自身の存在価値や将来への希望を見つけられなくなってしまう。

生活困窮者を支援しているNPO「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠氏が著書『貧困襲来』のなかでうちだした、「5重の排除」です。1から4の排除にさらされた結果として“自分自身からの排除”というものにまでいたってしまうのです。「そんな状態に陥ってしまうと、結局は自分を責めてしまう。こんな自分が生きていても意味がないんじゃないか……」と思い込んで。

雨宮さんはこの本で、ある三十代の男性の話を紹介しています。
「本当は自分自身の人間としての価値のなさや社会から除外されている事を考えると社会のタメに死を選ぶことが必要だと考えています」
「今の仕事が出来ないのも全ての原因は自分自身であると思っており生きてる事が社会に対して迷惑と思っております」

彼はなぜこのように思いつめるようになったのでしょうか。彼はリストラ後の求職活動(6年で120社以上に及んだそうです)で面接者の心ない言葉にさらされました。
「貴方の生きてる目的はなんですか? こんな六年も地に足が着かない事をして……。私には貴方のような人達の生きている理由が理解できない」

ここにみられるのは“他者への無理解”と“おのれを正義”とする態度、姿勢です。この心ない言葉を吐いた面接者は自分の考え(=信念)を疑いもしなかったのでしょう。それが聞くものをどれだけ傷つけているか。この2つが結びついたとき怖ろしいほどの“暴力性”を生み出します。さらに日本の風土の“劣悪性”の象徴ともいえる同調圧力と付和雷同の上で行使されるとその暴力性は想像を超えるものがあります。

この本で雨宮さんが取材した人々はこれらの排除圧力(暴力性)にさらされ追いつめられた人々です。ある人は心を病み、ある人は子を捨て、また子が親を捨てる。あるものは犯罪者となり、またあるものは自殺という結末をむかえました。排除されたものは「自分自身からの排除」へと陥ってしまうのです。

──自分の内面にだけ焦点が当てられ、「社会」や「生きづらさの背景」について語られることはまったくなかった。これほど日本社会が根底から変化し、「働くこと」「生きること」そのものが破壊されていることと、どんな生き方をすれば安心できるのかもわからず人生が丸ごと不安定化していることが無関係であったはずはないのに、誰一人として、そのことについて、語らなかった。たぶん、一度も。しかし、その背後で着々と若者を棄民化するような政策は進んでいた。──

この排除の連鎖を作っているものはなんでしょうか。それは“勝ち組・負け組”のレッテル貼り(二分法)であり、“自己責任論”という“(無意識的なものも含む)優越感”です。

端的にいえば“勝ち組・負け組”のレッテル貼りは、勝ったものにのみ存在価値を認めるということです。人間を優れたもの(=選ばれたもの)と劣ったものに分け、競争に勝つ人間のみを認めているので、決して人が生きるというそのこと自体に意味や価値を認めるものではありません。

それはこんなふうな言辞にあらわれています。
「能力がないから悪いんだ」
「同じ境遇でも歯を食いしばって頑張っている人がいるじゃないか」
「それなのにお前は」
というように……。

このような言動に雨宮さんはこう記しています。
──どれもある意味「正しい」言い分だ。その「正しさ」がわかるからこそ、人は黙り込んでしまう。(略)しかし、その「正しさ」は圧倒的に何かが欠けている。反論しようとすると、「正しさ」をふりかさず人は自分自身の苦労体験を語ったりする。──

そんな自分の「成功体験(=自慢話)」を語る背後にあるのは何でしょうか。
──「頑張ってきた自分を認めろ」というような浅ましい欲望にも満ちている。目の前の厳しい状況にある人の境遇を「本人のせい」ということにしておかないと、自分自身のそれまでの人生が何か否定された気になるのだろう。(略)私たちは、「年長さの承認欲求」=意味のない説教などに付き合う必要はない。それは時として、私たちの命さえ脅かすのだから。──

雨宮さんが「正論のふりをした暴力」とよぶゆえんです。この「正論」まがいを裏付けているものが「自己責任論」です。本当は自己責任をいう人々は“自己反省(省察)力”がないというべきでしょう。“負け組ではない人(=勝ち組とは限りません)”がいいがちな自己責任論には自己肯定感が見え隠れします。しかも、その肯定感は「教育課程からの排除」「家族福祉からの排除」をまぬがれていることから生じていることが多いのです。出発点の格差に無自覚なのです。それは、あるいは「頑張ってきた自分」への肯定感(他者から否定されないため)なのかもしれません。

私たちは弱者を排除することで自分たちを正当化しているのではないか、そのような自省を求めている本だと思います。「民営化された戦争」の章で紹介された兵士の世話係という海外派遣業務、さらには傭兵そのものの姿が排除社会の行く末を語っているように思います。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

おすすめの記事

2015.12.09

レビュー

〝弱者だけが増え続ける〟いまの日本の病因と政策ミス

2015.12.13

レビュー

女子が「理路整然」と話すメリット、「可愛げ」をとるリスク

2016.01.11

レビュー

イラッとする! 「上から目線」の日本人が増えた真相

最新情報を受け取る