しばしば耳にする「上から目線」という言葉と態度、それがどこから生じたのかを日本語(日本人)のコミュニケーションから分析した先駆的な本です。
著者によれば「日本語というのは、人間関係の調和が前提となってできている言語」であり、「関係性を規定して上下の敬語や遠近の丁寧表現を使ってコミュニケーションのフレームを作り(略)意見の相違や利害の相反が出てくると、婉曲表現や敬意の表現などを駆使して関係性を傷つけないようダイナミックなバランスをとろうとする」ものなのです。そこには〝会話のテンプレート〟とでもいえるようなもの、自然に共有してきたルールがありました。
日本語の会話には大きな特徴があります。「日本語の会話では「話し手と聞き手」という分担があり、それ自体が上下関係になる」ということがみられます。なぜ通常の会話が「上下関係」になるのでしょうか。それは「あいづち」というものが日本語にはあるからです。
著者によれば「あいづち」というものは、〝自然に〟会話をしている相互間に「話し手」と「聞き手」という役割をあたえ、「非対称的な、つまり対等ではない会話をしなくてはならない」形にさせてしまう。それが日本語の会話の特徴となっているのです。この本で例として取り上げられた「あいづち」がある会話、ない会話の具体例は私たちに日本人の機微とでもいったものをうまく伝えてくれています。
この「非対称的な関係」が人間関係に齟齬をきたさないように働いていたのが〝会話のテンプレート〟でした。ここでは多様な価値観があるということが前提となっていました。ですから「かつての「価値観」の対立には「いまのような閉塞感はなかった。中には厳しい断絶もあったが(略)全般的な時代の状況として価値観論争がコミュニケーションの行き詰まりをもたらすという雰囲気」はありませんでした。「相手の立場への理解や和解の糸口」をビルトインされていた〝テンプレート〟だったのです、あたかも会話のセーフティーネットのように。
ところがこの〝テンプレート〟が崩れてきました。それは自分が信ずる「価値観」のみを主張する事態が多くなってきたからです。このとき「価値観」は「世界観」とでも呼べるようにまでなってきたのです。著者によると「世界観」となったときには「価値観と価値観はストレートに衝突してしまい、悲壮な「全人格をかけた最終決戦」的なものまで簡単にエスカレートしてしまうのである」と。それが「上から目線」をもたらしてくるのだと。
「世界観」は唯一のものとして存在します。そこでは共感・共有の力が働き、排他的になることも容易に起こりえます。自らが信じる「世界観」への思いが深いほど、その世界への理解度は深まり、自分にとっての重要さは増していきます。とともにその「世界」への他者の無理解や違和感に対して不寛容になっていくのは起こりがちなことだと思います。これはカルチャーの世界だけではありません。政治・経済の世界でも起こりうることです。一つの「世界観」にとらわれている〝信念〟は不寛容や排除、はては自己陶酔を生むことにもなりかねません。
「上から目線」は必ずしも、立場の差、年齢の差、知識の差といったものから生まれるものではありません。孤立した自己を中心に同心円の〝ともだち〟を生んでいるだけのようにすら思えます。そこには〝他者〟といったものはなく、一色の世界しかないように思えるのです。
かつては価値観の多様性を包摂できるコミュニケーションの土台がありました。けれどそうしたコミュニケーションの回復より、自己の「世界観」への〝固執〟とでもいったものが優先されているように思えます。多様な価値観の尊重だったものがいつの間にか消し去られ、真逆な空間を生み出したのです。
著者のいうように、今私たちに必要なのはこの崩壊を直視して、新たなコミュニケーションの方法を求め、〝会話のテンプレート〟を作り直すことなのだと思います。
「上から目線」にさらされ悩まされている人たち、気がつかないうちに「上から目線」に陥っている人たち、コミュニケーションが難しくなった私たちに教えてくれることが多い一冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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